昨日、深夜のTVで教育評論家の尾木先生が、子ども学校での自殺、いじめなどの問題で出演されており、今の公立学校(学校運営・教師のレベルなどでしょうか)は、もし私立学校だったら、倒産している、と喝破しました。いじめ問題とか本来の教育について公立学校は、その本旨を理解していないと言うことでしょうか。
これを聞いて、納得された方も多いでしょうね。
社会主義のような、公務員経営からの企業破たんとして、日本航空・国鉄・電電公社・公立病院・アムーズメントパークなど、公務員が経営してきた施設は、効率の悪さから経営不振が続き、民間委託となってやっと繁盛してきました。
日本航空なども労働組合の横暴から、働かず高い給与の乗務員のため赤字で「倒産」し、私の株もゼロ円になりました。それでも、従業員たちは高い給与の正当性を主張するため、『私達は、お客様の安全を守っている。』とえばったところ、経営再建に乗り込んだ新社長から「赤字の会社でお客の安全など確保できるものではない・」とズバットやられた様です。JRも未だ労組の強い北海道はともかく、健全経営が進んでいます。株式の配当もありますから、銀行に預金するより実入りがあります。
身近なところでは、「千葉県子供の国」も袖ヶ浦の「東京ドイツ村」も公務員が手を引いたところで、集客が増加し、行列のできるテーマパークとなっています。
公立学校も、なんでも平等・平等とやっておれば間違いがない、と先生たちは子どもの個性を伸ばす教育など出来ません。最悪なのが学校内のイジメの問題です。知合いのお子さんは、正義感の強い子どもで、クラスの子どもが悪いことをしていたので、注意をしたところ、それを見ていた外の子どもも、悪いことをした同級生に同じように注意をしたことから、一人対多数と言うことで、悪さをした子どもからイジメだと申告されて、注意した子どもたちは学校から、これがイジメであると認定される始末です。
仲間はずれ、陰口など大人の社会でもイジメは、日常茶飯事です。会社で社員のリストラを担当する総務など、従業員のリストラをする理由を作り出し、やめさせています。
世界の情勢を見ても、油断をすればたちどころに領土を乗っ取られたりします。要するに人間社会、どこでもイジメが世の中を動かす原動力とまではいえませんが、他人を打ち負かす競争で世の中が成り立っています。
ですから、教育の現場では、他人からの少々の嫌がらせなど、最悪の事態を回避する予防注射と理解したほうが子どもの将来のために有益と思います。大人になるまで、他人から一切の意地悪もされないままで、大学を卒業後就職し、そこで初めて先輩からイジメを受けるなどした場合、本人は、大人がハシカに罹ったように死んでしまうかもしれません。
今、学校内で陰湿ないじめがないとは言いませんが、つまらない多くの「イジメ」に労力を割いていると本当に是正すべきイジメを見逃してしまうのではないでしょうか。ここに公立学校の危ういところが見え隠れします。
世の中不思議なもので、このつまらない「イジメ」を、また飯の種にする弁護士も出てまいります。事務所のホームページに弁護士費用の概略を説明しながら、イジメの問題を法的問題として相手から金銭を取ろうとするのです。
イジメの加害者が、イジメを認めている事案では、着手金20万円(弁護士の出る幕ではない)、相手がイジメを争っている場合の着手金は30万円(金銭の交渉だけ)、更に訴訟となると更に20万円(合計50万円)その他出張する場合の日当、加害者から慰謝料を取れれば更に報酬と言うように、今の殺伐とした学校教育現場で子どものイジメ問題も教育を離れて金銭問題となるのです。
本来学校内での問題は、学校内で双方の保護者の真摯な話し合いを行うなどして、一日も早い解決を目指さなければ、日々成長する子どもにとって大きな負担となってしまいます。数年も裁判していたら、学校も卒業してしまいます。
要するに、学校内でのいじめ問題など、弁護士が介入することなく、早期に解決する、そのために学校教育機関もイジメ問題の調査結果を「・・前略・・いじめを受けた児童等の保護者といじめを行った児童等の保護者との間で争いが起きることのないよう、いじめの事案に係る情報をこれらの保護者と共有するための措置その他の必要な措置を講ずるものとする。」(『いじめ防止対策推進基本法』第23条5項)としているのですが、いじめを飯の種にする弁護士は、この法律の趣旨『争いが起きることのないよう・・情報を共有する』のではなく、典型的な争いである裁判で相手から慰謝料を取るため学校に事情聴取の記録提出を求め、それを証拠にしようとするのです。社会の将来を担う子どもの教育という根本のところで大きな間違いを犯しているのが、理解できないのですかね。
家の子どもの、中学生のとき、宿題を忘れると担当の先生からほっぺをねじられて痛がっていました。授業参観のとき、賛否両論でしょうが、私が「村田先生は、良い先生ですね。子どもが宿題を忘れるとほっぺをつねってくれるそうで、ありがとうございます。」と感謝の気持ちを表しておきました。
今の公立の学校教育が具体的にどの様にされているか、分かりませんが、公立の先生が上のようにほっぺをつねれば、100%校内暴力・イジメで叩かれるでしょう。
話しが飛びますが、我が国では、様々な分野に素人が浅はかな知識で口を出すのが「民主主義」と考えられているように思います。
病気になれば、インターネットで検索して「専門家」になってしまいます。知合いのドクターが患者から、TVで人気のドクターに紹介状を書いてほしいと依頼され、患者がその有名な先生にかかったところ、症状が悪くなって帰ってきたそうです。そこで、知合いのドクターTV局に電話して抗議をしたところ「先生、アレはメディカル・ショーですよ。」と一蹴されたようです。
一時、患者様などと、患者に様をつけてご機嫌を伺い、生活保護の患者が、窓口で、間違い料金を請求されたところ、その患者「俺を誰だと思ってるんだ、おれは生活保護を受けてるんだ。」と怒鳴り散らし、ジェネリックも拒否される始末です。
自費の負担があれば、一円でも安いジェネリックをお願いするのに、生保受給者は高い薬を飲んでいるのです。これも、国民の医療現場を知らない役人が医療と薬の値段を決め、保険からの医療費の支払も官僚がやっているから悪平等がはびこっています。
官の範囲を極力減らし、民間の能力を社会全体に広く活用することが、安倍首相のいう一億総活躍社会でしょう。ヨボヨボな老人も働け、ということですか。
2016年03月11日
2013年08月01日
適材適所
夏休みを利用し、秋田から甥・姪の兄妹が遊びに来ました。高校生の教科書『倫理』を使って説明するうち、彼らは「適材適所」の意味を理解していないようなので、国語辞典で意味を読ませた後、つぎの説明をしました。
妹が、バレーボールをしていたので、「背が高くないが、トスを上手に上げることができる子にアタックをさせ、背が高くてレシーブがあまり上手でない子が、バックスを守ったりするチームは強いか」と質問したところ、「弱いチームだ」と答えが返ってきました。
そこで、「そうだろ、この様に適材適所で人材を活用しないとチームも弱いし、社会も発展できないし、国力だって弱くなってしまうんだ」と説明したところ、判ったような顔つきをしていました。
最近、医者も、弁護士も、公認会計士も、一級建築士(優位な職業)も「本当に、こいつ仕事ができるのか」と疑問を感ずることが、多々ありました。日弁連の機関紙『自由と正義』に、色々馬鹿なことをやった弁護士の懲戒公告が出ています。
鳥取県での事件を紹介しますと、代理人としてマンションの競売申立をした後、この部屋の賃借人が、勝手に内装工事を始めたので、この弁護士、依頼者からの「警察の承諾を得ている」との報告を真に受けて、警察に確認もすることなく、警察と弁護士の名前で立ち入り禁止の張り紙を貼ったことで戒告の処分を受けました。
警察署と弁護士の連名で張り紙を刷るということは、立ち入り禁止の張り紙に「〇〇警察署長」「〇〇弁護士」と書いたことでしょうから、場合によって文書偽造になりかねません。
この様に、信じられない程のアホが、どうして弁護士になれたのかと、考えたところ、大いなる仮説にたどり着きました。
それは、社会制度として「優位な職業は、適材適所で選出される」ことになっていれば、そもそも彼らは、その職業に就く国家試験にパスできなかったのでしょうが、彼らの多くが、有名大学を卒業して、国家試験に合格しているのです。
要するに、能力もないのに親の資力で、幼い頃から「お受験・お受験」を繰り返して有名大学に入学し、即ちアンフェアーな『フライング』をする事で有名大学から、国家試験まで合格してしまうのです。
それは、司法試験を例に挙げれば、暗記したことを再現できる能力があれば、試験に合格できる程度でしかないからです。特に最近は、法科大学院ができたことで、口述試験もなく、(大学院入学時はともかく)司法試験で、法曹としての「適性」をチェックすることも出来ません。
また、これは、何も司法試験だけでなく、医師国家試験(丸暗記でOK)も公認会計士も建築士も同じだと考えられます。この様な事態は、国家戦略としても、誠に憂慮すべき事態です。
先日ブログに書きましたが、フランスのように、レベルに達しなければ、多く落第させ、勉強だけでなく、体育(運動神経)、さらには社会性も昇級の要件としなければ、わが国の国力は衰退し、隣の二級国家、韓国にも馬鹿にされてしまいます。
妹が、バレーボールをしていたので、「背が高くないが、トスを上手に上げることができる子にアタックをさせ、背が高くてレシーブがあまり上手でない子が、バックスを守ったりするチームは強いか」と質問したところ、「弱いチームだ」と答えが返ってきました。
そこで、「そうだろ、この様に適材適所で人材を活用しないとチームも弱いし、社会も発展できないし、国力だって弱くなってしまうんだ」と説明したところ、判ったような顔つきをしていました。
最近、医者も、弁護士も、公認会計士も、一級建築士(優位な職業)も「本当に、こいつ仕事ができるのか」と疑問を感ずることが、多々ありました。日弁連の機関紙『自由と正義』に、色々馬鹿なことをやった弁護士の懲戒公告が出ています。
鳥取県での事件を紹介しますと、代理人としてマンションの競売申立をした後、この部屋の賃借人が、勝手に内装工事を始めたので、この弁護士、依頼者からの「警察の承諾を得ている」との報告を真に受けて、警察に確認もすることなく、警察と弁護士の名前で立ち入り禁止の張り紙を貼ったことで戒告の処分を受けました。
警察署と弁護士の連名で張り紙を刷るということは、立ち入り禁止の張り紙に「〇〇警察署長」「〇〇弁護士」と書いたことでしょうから、場合によって文書偽造になりかねません。
この様に、信じられない程のアホが、どうして弁護士になれたのかと、考えたところ、大いなる仮説にたどり着きました。
それは、社会制度として「優位な職業は、適材適所で選出される」ことになっていれば、そもそも彼らは、その職業に就く国家試験にパスできなかったのでしょうが、彼らの多くが、有名大学を卒業して、国家試験に合格しているのです。
要するに、能力もないのに親の資力で、幼い頃から「お受験・お受験」を繰り返して有名大学に入学し、即ちアンフェアーな『フライング』をする事で有名大学から、国家試験まで合格してしまうのです。
それは、司法試験を例に挙げれば、暗記したことを再現できる能力があれば、試験に合格できる程度でしかないからです。特に最近は、法科大学院ができたことで、口述試験もなく、(大学院入学時はともかく)司法試験で、法曹としての「適性」をチェックすることも出来ません。
また、これは、何も司法試験だけでなく、医師国家試験(丸暗記でOK)も公認会計士も建築士も同じだと考えられます。この様な事態は、国家戦略としても、誠に憂慮すべき事態です。
先日ブログに書きましたが、フランスのように、レベルに達しなければ、多く落第させ、勉強だけでなく、体育(運動神経)、さらには社会性も昇級の要件としなければ、わが国の国力は衰退し、隣の二級国家、韓国にも馬鹿にされてしまいます。
2012年10月19日
奇跡の人って誰だか知ってますか?
分かっているつもりで、完全に間違えていることってあるものですね。皆さん「奇跡の人って誰でしょうか?」私が、今まで質問した人では、今のところ正解はありません。あなたは「ヘレン・ケラー」と答えますか。残念でした、違います。
彼女(以下「奇跡の人」)は、南北戦争が終わった翌年の1866年マサチューセッツ州フィーディング・ヒルに生まれました。両親は、19世紀半ばアイルランドで発生した大飢饉を逃れアメリカに移住しました。父は無学で技術も無く、大酒のみで食べるパンにも事欠き、彼女は5歳のときトラコーマに罹患し十分な手当ても受けることもなく、徐々に視力障害を起こし、優しかった母も3人の子どもを残し結核で亡くなり、8歳になる彼女は、親戚の世話になりながら父親と幼い弟妹の面倒を見ていたのですが、殆ど失明していたといいます。
10歳のとき腰に疾患のある弟と共にチュークスベリの救貧院に送られました。彼女、はこの頃のことを「野蛮な、残忍、陰惨」と記憶しています。1880年救貧院の監査があったとき、彼女は勇敢にも「学校に行きたいんです。」と訴え、運よくボストンのパーキンス盲学校に入学できました。救貧院を出たときは、新聞紙に包んだ着替え1枚と粗末な下着だけでした。
14歳まで学校に行った事もなく、読み書き・算数・行儀作法が遅れており、劣等感と惨めさを隠すため激しく反抗して教師を困らせ、クラスでも馬鹿にされていました。しかし、ひそかな努力で成績が向上し、それがまた周囲を軽蔑する態度となったそうです。
彼女の複雑な感情に理解をしめす教師もおり、何度も放校の危機を救ってもらい、やさしい寮母の愛情から、彼女の意固地な心も解け始め、物事をあるがままに受け入れられるようになり、「変えられるのは自分自身でしかないと悟った」のです。
彼女は、二度目の手術を受け新聞が読めるまで視力が回復し、闇の世界に光が差し込み勉強に精を出すようになり、それまでの憤懣と無知が他人に対する愛、理解、同情とに変わったのです。
ところで、1829年設立されたアメリカ初の盲学校の初代校長サミュエル・ハウは、ローラ・ブリッジマンという三重苦の少女に隆起文字や指文字を導入した教育方法を発案したものの、ハウ博士は彼女が入学したときは既に亡くなっており、義理の息子マイケル・アナグノスにハウ博士の教育が承継されていた。そして、ハウ博士と共に注目を浴びた少女ローラ・ブリッジマンは50代になり、ひっそりと構内で生活しており、彼女はこのローラ・ブリッジマンから指文字を習い学生たちのおしゃべりをローラの手に綴ってあげるなどの交流をしていました。
1886年晴れて卒業の日彼女は、総代に選ばれ、見事なスピーチを行って拍手喝采を浴び、彼女は美しく聡明な女性に成長していました。しかし、卒業後の進路が決まっていないところにアナグノス校長から南部の小さな町で三重苦のヘレン・ケラーという少女の家計教師を探していると紹介され、ケラー家で働く決心をした彼女は一端パーキンスに戻り、ハウの報告書を研究し、子どもの心理発達に関する本など半年をかけて準備した上でアラバマ州タスカンビアに出発しました。20歳の彼女にとって初めての列車のたびでした。
日本語で戯曲『奇跡の人』の原題が「The Miracle Worker」から分かるように奇跡の人といわれた「彼女」は、ヘレンを導いたアン・サリバン(通称アニー)でした。(『月間ハーストーリー10月号』通巻285号より抜粋)
彼女(以下「奇跡の人」)は、南北戦争が終わった翌年の1866年マサチューセッツ州フィーディング・ヒルに生まれました。両親は、19世紀半ばアイルランドで発生した大飢饉を逃れアメリカに移住しました。父は無学で技術も無く、大酒のみで食べるパンにも事欠き、彼女は5歳のときトラコーマに罹患し十分な手当ても受けることもなく、徐々に視力障害を起こし、優しかった母も3人の子どもを残し結核で亡くなり、8歳になる彼女は、親戚の世話になりながら父親と幼い弟妹の面倒を見ていたのですが、殆ど失明していたといいます。
10歳のとき腰に疾患のある弟と共にチュークスベリの救貧院に送られました。彼女、はこの頃のことを「野蛮な、残忍、陰惨」と記憶しています。1880年救貧院の監査があったとき、彼女は勇敢にも「学校に行きたいんです。」と訴え、運よくボストンのパーキンス盲学校に入学できました。救貧院を出たときは、新聞紙に包んだ着替え1枚と粗末な下着だけでした。
14歳まで学校に行った事もなく、読み書き・算数・行儀作法が遅れており、劣等感と惨めさを隠すため激しく反抗して教師を困らせ、クラスでも馬鹿にされていました。しかし、ひそかな努力で成績が向上し、それがまた周囲を軽蔑する態度となったそうです。
彼女の複雑な感情に理解をしめす教師もおり、何度も放校の危機を救ってもらい、やさしい寮母の愛情から、彼女の意固地な心も解け始め、物事をあるがままに受け入れられるようになり、「変えられるのは自分自身でしかないと悟った」のです。
彼女は、二度目の手術を受け新聞が読めるまで視力が回復し、闇の世界に光が差し込み勉強に精を出すようになり、それまでの憤懣と無知が他人に対する愛、理解、同情とに変わったのです。
ところで、1829年設立されたアメリカ初の盲学校の初代校長サミュエル・ハウは、ローラ・ブリッジマンという三重苦の少女に隆起文字や指文字を導入した教育方法を発案したものの、ハウ博士は彼女が入学したときは既に亡くなっており、義理の息子マイケル・アナグノスにハウ博士の教育が承継されていた。そして、ハウ博士と共に注目を浴びた少女ローラ・ブリッジマンは50代になり、ひっそりと構内で生活しており、彼女はこのローラ・ブリッジマンから指文字を習い学生たちのおしゃべりをローラの手に綴ってあげるなどの交流をしていました。
1886年晴れて卒業の日彼女は、総代に選ばれ、見事なスピーチを行って拍手喝采を浴び、彼女は美しく聡明な女性に成長していました。しかし、卒業後の進路が決まっていないところにアナグノス校長から南部の小さな町で三重苦のヘレン・ケラーという少女の家計教師を探していると紹介され、ケラー家で働く決心をした彼女は一端パーキンスに戻り、ハウの報告書を研究し、子どもの心理発達に関する本など半年をかけて準備した上でアラバマ州タスカンビアに出発しました。20歳の彼女にとって初めての列車のたびでした。
日本語で戯曲『奇跡の人』の原題が「The Miracle Worker」から分かるように奇跡の人といわれた「彼女」は、ヘレンを導いたアン・サリバン(通称アニー)でした。(『月間ハーストーリー10月号』通巻285号より抜粋)
2010年04月08日
教育の出発点(戸田小)
議員になって間もなく丸7年、この間地元の戸田小学校の入学式に参加をしてきました。早いもので、最初の戸田小での新入生が,昨日入学式が行われた双葉中の新一年生になりました。
新一年生は、今まで集団での行動も殆どなかったと思うのですが、入学式の冒頭に『新一年生起立!と言われたら一年生は立ってください。』『礼!といわれたら、お辞儀をしてください。』『一年生着席!と言われたら、座ってください。』と教えられ、全員が見事にできていました。まさに戸田小の出発点がここにあるようでした。
校長先生の歓迎ご挨拶の途中で『元気よく挨拶をしてください。』と言われたのに対し大きな声で『はぁーい』と返事をした子どももいて、ちょっと楽しい雰囲気があり、校長先生のご挨拶の最後には、全員で声高く『ハーイ』と元気の良い返事が聞こえました。
次に、戸田小の入学式で毎年恒例となっているのが、2年生によるパフォーマンスです。まだまだ幼かった昨年の新一年生が、今度は立場を変えて新一年生に対し、給食がおいしいよ、勉強も楽しいよ、足し算もできるよ、漢字もかけるよ、蛙倒立ができるよ、マット運動もできるよ、縄跳びもできるよ、と合唱を交えての歓迎は、頼りなかったあの一年生が僅か一年間でこれほどまでに成長できるものか,と思うと目頭が熱くなりました。
教育の効果、などというと大仰な言い方ですが、起立のある行動、元気良く返事ができることが教育の出発点でしょうし、教育の原点は間違いなく、戸田小にあることが実感できました。
伝統ある戸田小の校歌には
1「繁(も)ゆる、みどりの南総にアテネの昔、偲(しの)ぶなる、若き命はみなぎりて、四肢(しし)に波うつ我が健児」
2「高き文化に咲く花も強き体躯(たいく)に芽ばえてん、先ず身を鍛え、礼に生き、学に勤しむ、わが健児」
3「剛毅(ごうき)の心貫けば、国歩の難も乗り越えん、体育戸田の名に誇る、誉(ほまれ)は永久(とわ)にわが健児」
と謳われ、「無知の知」の哲学者ソクラテスの住んだアテネから始まり、文化にも体が基本であり、礼に生き、そして学ぶものであり、最後は強い心があればこそ、国家の難事も乗り越えられるのが、戸田体育の誇りである、と結んでいます。少々解釈が独善かも知れませんが、素晴しい自慢のできる我が母校です。
最近、知識偏重より、最初に道徳教育のほうを重視すべきであると言われてきましたが、確かに日常生活では、中学生の知識もあまり必要ないですから、知識より道徳のほうが社会を健全にするでしょうね。しかし、さらに大切なのが剛毅の心を持った四肢に波打つ健全な体躯が、教育の出発点ではないでしょうか。
新一年生は、今まで集団での行動も殆どなかったと思うのですが、入学式の冒頭に『新一年生起立!と言われたら一年生は立ってください。』『礼!といわれたら、お辞儀をしてください。』『一年生着席!と言われたら、座ってください。』と教えられ、全員が見事にできていました。まさに戸田小の出発点がここにあるようでした。
校長先生の歓迎ご挨拶の途中で『元気よく挨拶をしてください。』と言われたのに対し大きな声で『はぁーい』と返事をした子どももいて、ちょっと楽しい雰囲気があり、校長先生のご挨拶の最後には、全員で声高く『ハーイ』と元気の良い返事が聞こえました。
次に、戸田小の入学式で毎年恒例となっているのが、2年生によるパフォーマンスです。まだまだ幼かった昨年の新一年生が、今度は立場を変えて新一年生に対し、給食がおいしいよ、勉強も楽しいよ、足し算もできるよ、漢字もかけるよ、蛙倒立ができるよ、マット運動もできるよ、縄跳びもできるよ、と合唱を交えての歓迎は、頼りなかったあの一年生が僅か一年間でこれほどまでに成長できるものか,と思うと目頭が熱くなりました。
教育の効果、などというと大仰な言い方ですが、起立のある行動、元気良く返事ができることが教育の出発点でしょうし、教育の原点は間違いなく、戸田小にあることが実感できました。
伝統ある戸田小の校歌には
1「繁(も)ゆる、みどりの南総にアテネの昔、偲(しの)ぶなる、若き命はみなぎりて、四肢(しし)に波うつ我が健児」
2「高き文化に咲く花も強き体躯(たいく)に芽ばえてん、先ず身を鍛え、礼に生き、学に勤しむ、わが健児」
3「剛毅(ごうき)の心貫けば、国歩の難も乗り越えん、体育戸田の名に誇る、誉(ほまれ)は永久(とわ)にわが健児」
と謳われ、「無知の知」の哲学者ソクラテスの住んだアテネから始まり、文化にも体が基本であり、礼に生き、そして学ぶものであり、最後は強い心があればこそ、国家の難事も乗り越えられるのが、戸田体育の誇りである、と結んでいます。少々解釈が独善かも知れませんが、素晴しい自慢のできる我が母校です。
最近、知識偏重より、最初に道徳教育のほうを重視すべきであると言われてきましたが、確かに日常生活では、中学生の知識もあまり必要ないですから、知識より道徳のほうが社会を健全にするでしょうね。しかし、さらに大切なのが剛毅の心を持った四肢に波打つ健全な体躯が、教育の出発点ではないでしょうか。
2010年03月21日
哲学を学ぶ意味
昨年から、数名で「論語」勉強会をしているのですが、ここで何故2500年以上前の人々の「思想」を勉強する必要があるのか、高校の倫理の教科書をベースに考えて見ます。
幸福と生きがい:人間は身体的に満たされていても、精神的に満たされることがなければ本当の意味での幸福とは言えない。
「生きる意味」:誰でも我を忘れて何かに没頭しているときは、こんなことは考えない。
しかし、万能でない人間は必ず上手くいかないことがある。そこで、考えることになる。ということであり、必要なことは学ぶことである。「学びて思わざれば、則ち罔く、思いて学ばざれば則ち殆し」(論語)
「考える」ということ
パスカル:「人間は考える葦である。」
「考える」生理的欲求を満たすために考えるは動物でもやっている。
人間が「考える。」とは動物的ではなく自分の考え方、生き方を反省すると言う意味での「考える。」ということである。
「考えるとは、理屈を付けることでなく、深く感ずることである。深く感じる力を自分の中に育てられないと何も見えてこない」(詩人 長田弘 東京書籍 高校「倫理」)
「無知の知」
哲学を学ぶことが、どうしてソクラテス(BC469?~399)からなのか。「何も知らない」と知ったことから、自己の無知、人間の未知への探求が哲学(フィロソフィ:知を愛する)の出発点である。
哲学は、この人生についての根本的知識を得ようとすること、「この世界は根本において何であり、人生を如何に生きるべきか」の答えを捜すことである。
ギリシャの思想が発展した理由:生活の苦労の大半は奴隷にまかせ自分達は会話や討論に没頭する閑暇(スコレーSchoolの語源)をもち、この生活上のゆとりから自然の成り立ちに興味をもち、さらに紀元前5世紀頃になると思索の対象が自然から人間や社会(国家)への興味になってきた。
ソクラテス:アテネが民主政治の黄金時代から没落の道をたどる時期に混乱を増しつつあるポリスを立て直そうとして、人間のあるべき姿を徹底した思索を行い「自分の魂を優れてものにせよ、ただ生きるのでなく良く生きよ」と説いた。よく生きるために物事の善悪、美醜を知る(真の知者)善悪についての知を何より重視した。主知主義
知徳合一:優れた魂(徳)⇔善悪についての知の実現で人間の幸福
プラトン:理想主義的傾向を徹底した。理想の世界イデアが実在すると考えた。イデアの世界をこの現実の世界にどうすれば実現できるかを考えた。知恵に優れた哲学者が政治を行うことにより正義の実現された理想国家となる、と説いた。
プラトンの二世界説:理性でとらえるイデア界(真の世界)と感覚のこの世界(感覚界、現象界)これはキリスト教の「神の国と地上の国」の考え方に結びついている。
アリストテレス:師のプラトンの思想を引き継ぎ、理想主義的考え方を修正し、より現実を重視した。イデアは個々の現実の事物に内在(エイドス)している。この考えは中世キリスト教神学の中に入り、近代の科学的自然観が成立するまで、ヨーロッパの中心的自然であった。
配分的正義:各人の能力などに応じて比例を基礎とした配分
調整的正義:個々の事情を考慮せず各人を等しく扱い過不足を調整
中国の思想発展について
中国の最初の皇帝は黄帝、次に堯、舜、禹と三帝が続き禹によって夏王朝が建てられ、夏の後、殷(商とも)王朝、さらに周王朝と続いた。直接文字資料で存在が確かめられるのは殷王朝以後である。
紀元前16世紀ころから、殷は黄河の中流域を支配し、氏族ごとに村落を形成し、いくつかの村落で連合体が形成されていた。殷も連合体の一つであり、外の連合体を抑えて、盟主の地位にあったらしい。
紀元前12世紀連合国のうち周が勢力を伸ばし、殷は紂王を最後に盟主の地位を去る。
「封建時代」の成立:
周は、王族や功臣(親藩)を各地に配属するほか従来からの連合体にあらためてその地位を認め(諸侯)、これら諸侯を構成する各氏族の長が卿・大夫である。
諸侯にすることを「封」といい、新たな国を「建」てることからこの様な間接的統治を封建時代といった。周は4世紀ほど支配者の地位にあったが、前8世紀都を東の洛陽に移した。(秦が前221年全中国を統一するまでの500年が「東周」時代、であるが「春秋戦国時代」とも言われる。前5世紀までの300年間を孔子が編んだ歴史書「春秋」に扱われる時代という意味で春秋時代という。
中国思想発展の原動力:
前403年晋が趙・魏・韓に分裂したときが春秋と戦国の区切りである。戦国時代は約200年であり、弱肉強食の時代の中で富国強兵の必要から広く人材を求めた。春秋時代の後期に魯の国に孔子がでた。
もう一つの学派として墨子を祖とする墨家が戦国時代の二大学派、戦国時代の人材の需要が高まり諸子百家が出てきた。(徳間書房「韓非子」参照)
哲学と科学の相違:
ギリシャ哲学も中国思想も紀元前6世紀7世紀から始まっているが、何ゆえに2500年も前の思想から勉強する必要があるのか。それとも古い思想は学ぶ必要がないのか?
科学的な見方の特徴:科学はその対象とするのは、常に現実(悠久の昔からの宇宙全体:世界)の一側面(物理学、心理学など)である。
そしてこの科学的知識は、一度発見されればそれは万人のものとなり、後世の人はそれを前提にして前に進める。
ですから、全ての人が、子どものときから、一人で文字を編み出し、数字を思いつき、ゼロを発見し、ピタゴラスの定理を発見し、微分積分を学び、望遠鏡を作り出して地動説を知り、時間をかけて遺伝法則を発見し、さらに生物の進化法則を知る等という人類の科学的発展の努力をする必要はなく、客観的に明らかとなった事を前提としてその先に進むことができるのです。
しかし、これに対し哲学は、この人生、この現実が全体として何であり、またいかにあるべきかを問題とするということは、人が哲学を学ぼうとしたときは、各人一人ひとりが自らの人生を生きつつそれに向かって考える中で明らかになることである。
そのような意味で、哲学的な真理に関しては何時の時代でも各人が最初から見いだしてゆかなければならないといえる。哲学は科学とは同じ形では進歩しない理由がある。逆の面から言えば、偉大な哲学的思想は何時までも偉大でありつづけ、時代と共に古くなるものではないと言うことでもある。その意味で哲学は、宗教、芸術と共通性を持っている。(東京書籍高校「倫理」参照)
幸福と生きがい:人間は身体的に満たされていても、精神的に満たされることがなければ本当の意味での幸福とは言えない。
「生きる意味」:誰でも我を忘れて何かに没頭しているときは、こんなことは考えない。
しかし、万能でない人間は必ず上手くいかないことがある。そこで、考えることになる。ということであり、必要なことは学ぶことである。「学びて思わざれば、則ち罔く、思いて学ばざれば則ち殆し」(論語)
「考える」ということ
パスカル:「人間は考える葦である。」
「考える」生理的欲求を満たすために考えるは動物でもやっている。
人間が「考える。」とは動物的ではなく自分の考え方、生き方を反省すると言う意味での「考える。」ということである。
「考えるとは、理屈を付けることでなく、深く感ずることである。深く感じる力を自分の中に育てられないと何も見えてこない」(詩人 長田弘 東京書籍 高校「倫理」)
「無知の知」
哲学を学ぶことが、どうしてソクラテス(BC469?~399)からなのか。「何も知らない」と知ったことから、自己の無知、人間の未知への探求が哲学(フィロソフィ:知を愛する)の出発点である。
哲学は、この人生についての根本的知識を得ようとすること、「この世界は根本において何であり、人生を如何に生きるべきか」の答えを捜すことである。
ギリシャの思想が発展した理由:生活の苦労の大半は奴隷にまかせ自分達は会話や討論に没頭する閑暇(スコレーSchoolの語源)をもち、この生活上のゆとりから自然の成り立ちに興味をもち、さらに紀元前5世紀頃になると思索の対象が自然から人間や社会(国家)への興味になってきた。
ソクラテス:アテネが民主政治の黄金時代から没落の道をたどる時期に混乱を増しつつあるポリスを立て直そうとして、人間のあるべき姿を徹底した思索を行い「自分の魂を優れてものにせよ、ただ生きるのでなく良く生きよ」と説いた。よく生きるために物事の善悪、美醜を知る(真の知者)善悪についての知を何より重視した。主知主義
知徳合一:優れた魂(徳)⇔善悪についての知の実現で人間の幸福
プラトン:理想主義的傾向を徹底した。理想の世界イデアが実在すると考えた。イデアの世界をこの現実の世界にどうすれば実現できるかを考えた。知恵に優れた哲学者が政治を行うことにより正義の実現された理想国家となる、と説いた。
プラトンの二世界説:理性でとらえるイデア界(真の世界)と感覚のこの世界(感覚界、現象界)これはキリスト教の「神の国と地上の国」の考え方に結びついている。
アリストテレス:師のプラトンの思想を引き継ぎ、理想主義的考え方を修正し、より現実を重視した。イデアは個々の現実の事物に内在(エイドス)している。この考えは中世キリスト教神学の中に入り、近代の科学的自然観が成立するまで、ヨーロッパの中心的自然であった。
配分的正義:各人の能力などに応じて比例を基礎とした配分
調整的正義:個々の事情を考慮せず各人を等しく扱い過不足を調整
中国の思想発展について
中国の最初の皇帝は黄帝、次に堯、舜、禹と三帝が続き禹によって夏王朝が建てられ、夏の後、殷(商とも)王朝、さらに周王朝と続いた。直接文字資料で存在が確かめられるのは殷王朝以後である。
紀元前16世紀ころから、殷は黄河の中流域を支配し、氏族ごとに村落を形成し、いくつかの村落で連合体が形成されていた。殷も連合体の一つであり、外の連合体を抑えて、盟主の地位にあったらしい。
紀元前12世紀連合国のうち周が勢力を伸ばし、殷は紂王を最後に盟主の地位を去る。
「封建時代」の成立:
周は、王族や功臣(親藩)を各地に配属するほか従来からの連合体にあらためてその地位を認め(諸侯)、これら諸侯を構成する各氏族の長が卿・大夫である。
諸侯にすることを「封」といい、新たな国を「建」てることからこの様な間接的統治を封建時代といった。周は4世紀ほど支配者の地位にあったが、前8世紀都を東の洛陽に移した。(秦が前221年全中国を統一するまでの500年が「東周」時代、であるが「春秋戦国時代」とも言われる。前5世紀までの300年間を孔子が編んだ歴史書「春秋」に扱われる時代という意味で春秋時代という。
中国思想発展の原動力:
前403年晋が趙・魏・韓に分裂したときが春秋と戦国の区切りである。戦国時代は約200年であり、弱肉強食の時代の中で富国強兵の必要から広く人材を求めた。春秋時代の後期に魯の国に孔子がでた。
もう一つの学派として墨子を祖とする墨家が戦国時代の二大学派、戦国時代の人材の需要が高まり諸子百家が出てきた。(徳間書房「韓非子」参照)
哲学と科学の相違:
ギリシャ哲学も中国思想も紀元前6世紀7世紀から始まっているが、何ゆえに2500年も前の思想から勉強する必要があるのか。それとも古い思想は学ぶ必要がないのか?
科学的な見方の特徴:科学はその対象とするのは、常に現実(悠久の昔からの宇宙全体:世界)の一側面(物理学、心理学など)である。
そしてこの科学的知識は、一度発見されればそれは万人のものとなり、後世の人はそれを前提にして前に進める。
ですから、全ての人が、子どものときから、一人で文字を編み出し、数字を思いつき、ゼロを発見し、ピタゴラスの定理を発見し、微分積分を学び、望遠鏡を作り出して地動説を知り、時間をかけて遺伝法則を発見し、さらに生物の進化法則を知る等という人類の科学的発展の努力をする必要はなく、客観的に明らかとなった事を前提としてその先に進むことができるのです。
しかし、これに対し哲学は、この人生、この現実が全体として何であり、またいかにあるべきかを問題とするということは、人が哲学を学ぼうとしたときは、各人一人ひとりが自らの人生を生きつつそれに向かって考える中で明らかになることである。
そのような意味で、哲学的な真理に関しては何時の時代でも各人が最初から見いだしてゆかなければならないといえる。哲学は科学とは同じ形では進歩しない理由がある。逆の面から言えば、偉大な哲学的思想は何時までも偉大でありつづけ、時代と共に古くなるものではないと言うことでもある。その意味で哲学は、宗教、芸術と共通性を持っている。(東京書籍高校「倫理」参照)
2010年03月18日
哲学のススメ
最近「倫理」にはまっているのですが、変な意味ではなく高校教科書の「倫理」です。きっかけは、佐藤優氏の「高校の教科書内容を理解している人は、一級の知識人である。」というようなことをどこかで読んだことと、週間東洋経済で連載されている鎌田浩毅教授の「一生モノの古典」を見てからです。
特に昨年10月10日号から3月20日号までの23回で、教授は「人間とは何か」「生きがいとは何か」という基本的テーマで読者に読むべき本を体系的に案内しています。
高校「倫理」を読んでいるときに鎌田教授の連載に接し、長くなりますが、教授の読め!とお勧めの本をご案内します。もちろん私も僅か数冊の冒頭のみを、読んだ程度です。
ソクラテス(プラトン)、論語(孔子)、フランクリン自伝、ジュリアス・シーザー(シェイクスピア)、バガヴァッド・ギーター(ヒンドゥー教聖典)、新科学対話(ガリレオ・ガリレイ)、野生の思考(レヴィストロース)、学問のすすめ(福沢諭吉)、神曲(ダンテ)、知的生活(P・G・ハマトン)、韓非子(韓非)、人生の意味の心理学(アルフレート・アドラー)、ホモ・ルーデンス(ホイジンガ)、君主論(マキャベリア)、春宵十話(岡潔)、藁のハンドル(ヘンリー・フォード)、プラグマチズム(W・ジェイムス)、ゲーテとの対話(エッカーマン)、生きがいについて(神谷美恵子)、コロンブス航海記(コロンブス)、イタリア・ルネサンスの文化(ブルクハルト)、幸福論(ヒルティ)、人間性の心理学(マズロー)の23冊です。
その結果、驚いたことに鎌田教授の案内になる本が「倫理」の教科書(東京書籍)で引用されているものばかりである、ということです。
「倫理」をベースに「一生モノの古典」をガイドブックにしながら紹介されて自分の読みたいと思う本を読みすすめるのが、いいのではないでしょうか。
世界と自分を知るために、またより良く生きるため、体系的理解が不可欠と思います。是非一緒にアタックしましょう!
特に昨年10月10日号から3月20日号までの23回で、教授は「人間とは何か」「生きがいとは何か」という基本的テーマで読者に読むべき本を体系的に案内しています。
高校「倫理」を読んでいるときに鎌田教授の連載に接し、長くなりますが、教授の読め!とお勧めの本をご案内します。もちろん私も僅か数冊の冒頭のみを、読んだ程度です。
ソクラテス(プラトン)、論語(孔子)、フランクリン自伝、ジュリアス・シーザー(シェイクスピア)、バガヴァッド・ギーター(ヒンドゥー教聖典)、新科学対話(ガリレオ・ガリレイ)、野生の思考(レヴィストロース)、学問のすすめ(福沢諭吉)、神曲(ダンテ)、知的生活(P・G・ハマトン)、韓非子(韓非)、人生の意味の心理学(アルフレート・アドラー)、ホモ・ルーデンス(ホイジンガ)、君主論(マキャベリア)、春宵十話(岡潔)、藁のハンドル(ヘンリー・フォード)、プラグマチズム(W・ジェイムス)、ゲーテとの対話(エッカーマン)、生きがいについて(神谷美恵子)、コロンブス航海記(コロンブス)、イタリア・ルネサンスの文化(ブルクハルト)、幸福論(ヒルティ)、人間性の心理学(マズロー)の23冊です。
その結果、驚いたことに鎌田教授の案内になる本が「倫理」の教科書(東京書籍)で引用されているものばかりである、ということです。
「倫理」をベースに「一生モノの古典」をガイドブックにしながら紹介されて自分の読みたいと思う本を読みすすめるのが、いいのではないでしょうか。
世界と自分を知るために、またより良く生きるため、体系的理解が不可欠と思います。是非一緒にアタックしましょう!
2009年10月26日
安心できる将来について
次の文章は、9月30日の議会報告に書いたのですが、スペースの関係で削除したものです。先日からの報道で、わが国の教育関係予算、特に奨学金制度が米国・韓国などに比べてお寒い状況であることが明らかとなりました。
私もかねがねわが国の金持ちは、貧しい人々に対する支援活動といいますか、ボランティア活動が乏しいと感じていました。少し関係がありそうなのでブログに紹介します。
夏に、久々海外旅行しました。長い間、東ヨーロッパに行ってみたいと考えていましたが、ようやく夢がかない、チェコとブルガリアを訪問できました。
これ等の国は、長い間ソ連の支配下にあったのですが、現在では資本主義体制になっています。人口も1000万人そこそこ、大きな産業もありませんし、まだまだ国民の間に車が広く行き渡っている状況でもありませんが、医療費は全て無料、ブルガリアでは、教育は大学5年まで全て無料と言うことです。
医療・教育が無料と言うことは、国民は病気などに心配することなく安心して勉学に励み、頑張って好きな職業に就くチャンスがあります。
それに引換えわが国はどうしたものでしょうか。授業料を支払えず高校を中退している人が増えています。医療保険制度がありますが、保険料の支払ができず、安心して医者にかかれない状況もあります。工業先進国アメリカでは低所得者を含めた医療保険制度の確立に向け国論が二分しています。それに比べ、必ずしも先進国ではないチェコなどでの生活のほうが将来も安心して暮らせるようです。
また、ゆったりと流れるドナウ川では子ども達がグループで一生懸命カヌーを漕いで楽しそうに「遊んで」いました。転覆という危険を肌で感じながら、友達と競いつつ助け合いながら、自分で漕がなければ進めないカヌーで肉体も精神も鍛えられているようです。自立心・プライド・助け合いなどは子どものときからの「遊び」の中でこそ充実してゆくのではないか、と考えさせられました。日本の子どもは、家の中でゲームで時間を「潰して」います。自立心・協調性が身に付くか不安ですね。
私もかねがねわが国の金持ちは、貧しい人々に対する支援活動といいますか、ボランティア活動が乏しいと感じていました。少し関係がありそうなのでブログに紹介します。
夏に、久々海外旅行しました。長い間、東ヨーロッパに行ってみたいと考えていましたが、ようやく夢がかない、チェコとブルガリアを訪問できました。
これ等の国は、長い間ソ連の支配下にあったのですが、現在では資本主義体制になっています。人口も1000万人そこそこ、大きな産業もありませんし、まだまだ国民の間に車が広く行き渡っている状況でもありませんが、医療費は全て無料、ブルガリアでは、教育は大学5年まで全て無料と言うことです。
医療・教育が無料と言うことは、国民は病気などに心配することなく安心して勉学に励み、頑張って好きな職業に就くチャンスがあります。
それに引換えわが国はどうしたものでしょうか。授業料を支払えず高校を中退している人が増えています。医療保険制度がありますが、保険料の支払ができず、安心して医者にかかれない状況もあります。工業先進国アメリカでは低所得者を含めた医療保険制度の確立に向け国論が二分しています。それに比べ、必ずしも先進国ではないチェコなどでの生活のほうが将来も安心して暮らせるようです。
また、ゆったりと流れるドナウ川では子ども達がグループで一生懸命カヌーを漕いで楽しそうに「遊んで」いました。転覆という危険を肌で感じながら、友達と競いつつ助け合いながら、自分で漕がなければ進めないカヌーで肉体も精神も鍛えられているようです。自立心・プライド・助け合いなどは子どものときからの「遊び」の中でこそ充実してゆくのではないか、と考えさせられました。日本の子どもは、家の中でゲームで時間を「潰して」います。自立心・協調性が身に付くか不安ですね。
2009年05月23日
文質彬彬
文質彬彬(ひんぴん)
常日頃、反省する事多かりし自分です。どういうことかと言いますと、自分は誠実で嘘がないと考えており、人様からのご批判はそう簡単には望めませんが、ご批判を頂いたときは、謙虚になれるように努力します(内面では腹が立つことがある。)。
ということで、内面(質)では誠実で高潔であろうと努力しても、外面に現れた言動が礼を欠き、内面の精神とそぐわないとその人は野卑な田舎者にすぎない、そうです(渋沢栄一「論語」の読み方:三笠書房)。耳が痛いですね。
反対に内心が下劣であるにもかかわらず、外面をうまく取り繕って美しく見せる人が多いですね。心にもない美辞麗句を並び立て、出世しようとする人が・・・公務員の典型と言う事です。私ではなく、孔子様が言うのです。
今日NHKラジオで、京都大学で長年ゴリラを研究している先生が話をしておりました。言葉のないゴリラは視覚・聴覚・嗅覚などで相手が何を考えているか、予測して行動する、という事のようです。人間でも扁桃体は無意識下で相手の表情から自らへの危険をキャッチする(「感情の心理学」放送大学テキスト)そうですが、人間でも動物でも相手の感情を言葉でなくキャッチするのが相手とのコミュニケーションを始める出発点です。
人類が猿から分かれたのが600万年前、言葉を獲得したのが6万年前、文字を使用し始めてから数千年と言う事です。
こう考えますと、人間うまれてから、言葉を獲得するまでは、直接相手の表情をみてから、コミュニケーションをとる練習をしていることになります。逆に相手と顔を合わせないで携帯メールでのやり取りをしていますと、本当のコミュニケーションは取れなくなりますね。
そうしますと、トウヘンボクの花のように「無学(萼)多弁」で慇懃無礼の言葉より、内面の誠実さこそ大切なのですが、五感の鍛錬をしないと、「文(外面)質(内面)に勝てば則(すなわ)ち史(国家の礼式と書き物をつかさどる官吏:実は軽蔑している)」ということで、「内面」と「外面」のバランスを良く備えた人物こそ君子といえるようです。
私など、「もう少し言葉遣いを丁寧にすれば、誤解されないものを」と反省するのですが、皆さんは内面と外面のバランスのとれた君子でしょうかな? 失礼!
常日頃、反省する事多かりし自分です。どういうことかと言いますと、自分は誠実で嘘がないと考えており、人様からのご批判はそう簡単には望めませんが、ご批判を頂いたときは、謙虚になれるように努力します(内面では腹が立つことがある。)。
ということで、内面(質)では誠実で高潔であろうと努力しても、外面に現れた言動が礼を欠き、内面の精神とそぐわないとその人は野卑な田舎者にすぎない、そうです(渋沢栄一「論語」の読み方:三笠書房)。耳が痛いですね。
反対に内心が下劣であるにもかかわらず、外面をうまく取り繕って美しく見せる人が多いですね。心にもない美辞麗句を並び立て、出世しようとする人が・・・公務員の典型と言う事です。私ではなく、孔子様が言うのです。
今日NHKラジオで、京都大学で長年ゴリラを研究している先生が話をしておりました。言葉のないゴリラは視覚・聴覚・嗅覚などで相手が何を考えているか、予測して行動する、という事のようです。人間でも扁桃体は無意識下で相手の表情から自らへの危険をキャッチする(「感情の心理学」放送大学テキスト)そうですが、人間でも動物でも相手の感情を言葉でなくキャッチするのが相手とのコミュニケーションを始める出発点です。
人類が猿から分かれたのが600万年前、言葉を獲得したのが6万年前、文字を使用し始めてから数千年と言う事です。
こう考えますと、人間うまれてから、言葉を獲得するまでは、直接相手の表情をみてから、コミュニケーションをとる練習をしていることになります。逆に相手と顔を合わせないで携帯メールでのやり取りをしていますと、本当のコミュニケーションは取れなくなりますね。
そうしますと、トウヘンボクの花のように「無学(萼)多弁」で慇懃無礼の言葉より、内面の誠実さこそ大切なのですが、五感の鍛錬をしないと、「文(外面)質(内面)に勝てば則(すなわ)ち史(国家の礼式と書き物をつかさどる官吏:実は軽蔑している)」ということで、「内面」と「外面」のバランスを良く備えた人物こそ君子といえるようです。
私など、「もう少し言葉遣いを丁寧にすれば、誤解されないものを」と反省するのですが、皆さんは内面と外面のバランスのとれた君子でしょうかな? 失礼!
2008年01月23日
『天網恢恢疎にして洩らさず』
『天網恢恢疎にして洩らさず』
NHK職員のインサイダー取引とか、未だに企業の様々な偽装が続いています。鳴門の糸ワカメの何割かが韓国産、中国産あるいは船場吉兆の営業再開などは全然感心ありませんが、どういう訳かTVで報道されています。吉兆には有力なご贔屓でもいるようです。
地元、旧川鉄では20年以上のシアン垂れ流しなど、とても許せない虚偽がありましたが、さらに川鉄病院でも患者の病名を偽り、不正に診療報酬を「詐取」していた事実が判明しました。
数え上げるときりがないのですが、地元千葉銀行でも億単位の横領が報道されていましたが、実はもっと大きな金額を横領した同じような職員が、刑事告訴もされていないとの噂もあります。消えてしまったお金はどう処理したのでしょうかね。
保険会社が、保険金の支払をしていないことが大きな社会問題となっています。しかし、保険会社は、生来的に「悪党」なのですから、特に驚く必要もないでしょうが、事故・病気があったときの為の保険でありながら、金額の安い物損事故で保険を使うと、保険の等級が下がり、翌年から保険料がぐっと高くなります。この方法で保険会社は支払った保険料を数年で「回収」してしまいます。その後も高額の保険を払っていると契約者が事故を起したことで、結局保険会社は「儲ける」ことになります。「事故・病気」という人の不安に乗じ高い保険料を取っていることは正に悪党でしょう。
そういうわけで、10万円未満の物損事故では、泣く泣く「自前」で負担することになります。何のための保険かと考えます。保険会社の代理人弁護士は、被害者の命の代償を値切ったことで大枚な「報酬」を受け取り、被害者の窮状に乗じ保険金を値切ることのできた「優秀な弁護士」は、何十人ものイソ弁を雇って優雅な生活をしているのです。
今日はもっと高尚な事、世界の動きとか、日本経済の行方など論じようとして枕に正義感の欠ける事例を出して、結局日本の政治経済社会は根本のところの正義感が欠如しているのではないか、何時ごろから、こんなにも神をも恐れぬ日本人が増えてしまったのか、それは突き詰めれば我々団塊の世代の受けた教育から間違っていたのではないか、などと論ずる予定でしたが、腹の立つことを書き始めると、どんどんでてきます。誰ですか、そこで、もっと短くしろ、などと騒いでいる人は?
というわけでもないのですが、我々の年代は、高度経済成長に支えられながら、人間の欲望がどんどん膨らみ、これが実現する過程でもありました。それゆえ、当時の経済状況から私達の年代は「我慢をする」ことの重要性を十分教育されなかったのではないか、また個人主義は、絶対最高の価値と教え込まれ、個人の領域を大事にしすぎたことから、隣人同士連帯する事の重要性に思いが至らず、個人がバラバラにされてしまったのではないか。その典型が最近できた個人情報保護法などというとんでもない法律なのでしょう。
戦争に突き進んだ精神的支柱であった国家神道を反面教師としたことで信教の自由は、最大限保障(税金がかからない)され、また政治と宗教は完全に分離するという建前で、人間の理性と善意を信じすぎたのではないか、今の日本の政治経済のあらゆる場面での「偽装」は、人知を超えたもの「天」とか「神」を全く信じない「神をも恐れぬ」教育を続けた結果ではないだろうかと考えています。
『天網恢恢疎にして洩らさず』とは、天の網は大きいから、たまには大悪党を取り逃がすこともあるが、どこへ逃げても、天の下である限り何時かは捕まる、ということですが、この様な考え方は、ある種の「宗教教育」ではないでしょうか、国家神道という、羹(あつもの)に懲りて、「宗教教育」という膾(なます)を吹くように、極端な用心をしすぎて、日本人全体が「神をも恐れぬ人種」になってしまったのではないか、と考えているところです。
日本企業のトップも子供の頃は、鉄腕アトム、赤銅鈴の助の正義感、弱いものイジメ、悪い奴は許さない、という正義感を「勉強」したのでしょうが、知らず知らずのうちに人知を超えた天の存在を忘れ拝金主義に陥った結果でしょうね。根本のところで、正義が大切です。
最近気がついたのですが、「あの人好きとか嫌い」とかも根本のところで「正義感を共有」できる人かなと思います。まとまりませんが・・本日これまで、
NHK職員のインサイダー取引とか、未だに企業の様々な偽装が続いています。鳴門の糸ワカメの何割かが韓国産、中国産あるいは船場吉兆の営業再開などは全然感心ありませんが、どういう訳かTVで報道されています。吉兆には有力なご贔屓でもいるようです。
地元、旧川鉄では20年以上のシアン垂れ流しなど、とても許せない虚偽がありましたが、さらに川鉄病院でも患者の病名を偽り、不正に診療報酬を「詐取」していた事実が判明しました。
数え上げるときりがないのですが、地元千葉銀行でも億単位の横領が報道されていましたが、実はもっと大きな金額を横領した同じような職員が、刑事告訴もされていないとの噂もあります。消えてしまったお金はどう処理したのでしょうかね。
保険会社が、保険金の支払をしていないことが大きな社会問題となっています。しかし、保険会社は、生来的に「悪党」なのですから、特に驚く必要もないでしょうが、事故・病気があったときの為の保険でありながら、金額の安い物損事故で保険を使うと、保険の等級が下がり、翌年から保険料がぐっと高くなります。この方法で保険会社は支払った保険料を数年で「回収」してしまいます。その後も高額の保険を払っていると契約者が事故を起したことで、結局保険会社は「儲ける」ことになります。「事故・病気」という人の不安に乗じ高い保険料を取っていることは正に悪党でしょう。
そういうわけで、10万円未満の物損事故では、泣く泣く「自前」で負担することになります。何のための保険かと考えます。保険会社の代理人弁護士は、被害者の命の代償を値切ったことで大枚な「報酬」を受け取り、被害者の窮状に乗じ保険金を値切ることのできた「優秀な弁護士」は、何十人ものイソ弁を雇って優雅な生活をしているのです。
今日はもっと高尚な事、世界の動きとか、日本経済の行方など論じようとして枕に正義感の欠ける事例を出して、結局日本の政治経済社会は根本のところの正義感が欠如しているのではないか、何時ごろから、こんなにも神をも恐れぬ日本人が増えてしまったのか、それは突き詰めれば我々団塊の世代の受けた教育から間違っていたのではないか、などと論ずる予定でしたが、腹の立つことを書き始めると、どんどんでてきます。誰ですか、そこで、もっと短くしろ、などと騒いでいる人は?
というわけでもないのですが、我々の年代は、高度経済成長に支えられながら、人間の欲望がどんどん膨らみ、これが実現する過程でもありました。それゆえ、当時の経済状況から私達の年代は「我慢をする」ことの重要性を十分教育されなかったのではないか、また個人主義は、絶対最高の価値と教え込まれ、個人の領域を大事にしすぎたことから、隣人同士連帯する事の重要性に思いが至らず、個人がバラバラにされてしまったのではないか。その典型が最近できた個人情報保護法などというとんでもない法律なのでしょう。
戦争に突き進んだ精神的支柱であった国家神道を反面教師としたことで信教の自由は、最大限保障(税金がかからない)され、また政治と宗教は完全に分離するという建前で、人間の理性と善意を信じすぎたのではないか、今の日本の政治経済のあらゆる場面での「偽装」は、人知を超えたもの「天」とか「神」を全く信じない「神をも恐れぬ」教育を続けた結果ではないだろうかと考えています。
『天網恢恢疎にして洩らさず』とは、天の網は大きいから、たまには大悪党を取り逃がすこともあるが、どこへ逃げても、天の下である限り何時かは捕まる、ということですが、この様な考え方は、ある種の「宗教教育」ではないでしょうか、国家神道という、羹(あつもの)に懲りて、「宗教教育」という膾(なます)を吹くように、極端な用心をしすぎて、日本人全体が「神をも恐れぬ人種」になってしまったのではないか、と考えているところです。
日本企業のトップも子供の頃は、鉄腕アトム、赤銅鈴の助の正義感、弱いものイジメ、悪い奴は許さない、という正義感を「勉強」したのでしょうが、知らず知らずのうちに人知を超えた天の存在を忘れ拝金主義に陥った結果でしょうね。根本のところで、正義が大切です。
最近気がついたのですが、「あの人好きとか嫌い」とかも根本のところで「正義感を共有」できる人かなと思います。まとまりませんが・・本日これまで、
2007年08月22日
山中教育長古希記念ゴルフ
山中教育長様:4年間の素晴らしい教育行政ありがとうございました。
昨日(21日)平成15年から4年間、市原市の教育行政を担われてきた山中先生、多くの人々が残念と思われる中で突如辞職されました。殆どの人が今回の辞職を知らず、不意を突かれ慰留する時間もなかったと思います。
4年前の7月28日臨時市議会で承認されたときは一部議員から『牙を剥いた人は、推薦できない』とひと悶着あり、また『前任者の残任期間である。』などとも言われたとも聞きましたが、いざ選任されてみるとその職務遂行のすばらしさを見せ付けられ、以後誰一人、山中教育長の教育行政の進め方に異を挟む人もありませんでした。
却って、議会でも公明党の議員から賛辞を受け、任期満了後も問題なく再任されるなどしていましたので、あと2年はこのまま教育長の重責を担われるものと考えていた人はたくさんいたと思います。
しかし、この間何度か議会で色々の方々の年齢のことも話題となり、また6月の市議会議員選挙では最長老の中野議員が引退されたこともあり、山中先生まだまだ弁舌もお達者でありましたが、古希を迎えられ大きな節目がありましたので『もう勘弁願いたい、これからは好きなゴルフを楽しみたい』との思いから今回の辞職となったような気がいたします。
4年前、私が市議会議員選挙に出ることが決まったときは、玄関先にあったゴルフバッグには練習が終わったばかりの手袋がアイアンのヘッドにかかっていました。ゴルフ用具の手入れもきちんとされ、ラウンド80の前半で回られると言う事をお聞きしたときは、さすがと思いましたものの、議員のゴルフは殆ど平日に開催されていましたので、この4年間一度も山中先生とはご一緒した事もありませんでした。
山中先生のゴルフの腕前をこの目で拝見できたのは去る19日、森永高滝カントリークラブで開催された「山中教育長古希祝賀会」でのゴルフコンペでした。
セルフプレーが多くなって十分整備されたコースでゴルフをすることが少なくなった昨今、素晴らしいクラブ・ハウスとしっかりと整備されたコースでのプレーは、山中先生の古希をお祝いするコースとしては相応しいコースでした。
ゴルフの結果は、これを言いたいために久しぶりにブログを書いているのですが、70歳の山中先生グロスで86回、57歳の私グロスで83回でした。一回りも違う年齢ですから、実のところもっと差がつくであろうと考えていましたが、幸い調子のよかった私が山中先生のストロークを3つ上回る事ができてよかったと思います。この結果を見て「やすかねは、会の趣旨をわきまない」などと非難ごうごうでしたが、私はベスグロの他ドラコンとか、ニアピンも取ってしまいました。
山中先生が最初に『命あってのゴルフですから、ご注意を』という話をされていましたが、本当に暑い中、命をとられることもなく、無事終わった楽しいゴルフコンペとなりました。
今後は「山中杯」を創設すると言う事ですので、第一回の優勝者となるのは多分私でしょうという事をお伝えして久々のブログを終わりとします。また見てください。
昨日(21日)平成15年から4年間、市原市の教育行政を担われてきた山中先生、多くの人々が残念と思われる中で突如辞職されました。殆どの人が今回の辞職を知らず、不意を突かれ慰留する時間もなかったと思います。
4年前の7月28日臨時市議会で承認されたときは一部議員から『牙を剥いた人は、推薦できない』とひと悶着あり、また『前任者の残任期間である。』などとも言われたとも聞きましたが、いざ選任されてみるとその職務遂行のすばらしさを見せ付けられ、以後誰一人、山中教育長の教育行政の進め方に異を挟む人もありませんでした。
却って、議会でも公明党の議員から賛辞を受け、任期満了後も問題なく再任されるなどしていましたので、あと2年はこのまま教育長の重責を担われるものと考えていた人はたくさんいたと思います。
しかし、この間何度か議会で色々の方々の年齢のことも話題となり、また6月の市議会議員選挙では最長老の中野議員が引退されたこともあり、山中先生まだまだ弁舌もお達者でありましたが、古希を迎えられ大きな節目がありましたので『もう勘弁願いたい、これからは好きなゴルフを楽しみたい』との思いから今回の辞職となったような気がいたします。
4年前、私が市議会議員選挙に出ることが決まったときは、玄関先にあったゴルフバッグには練習が終わったばかりの手袋がアイアンのヘッドにかかっていました。ゴルフ用具の手入れもきちんとされ、ラウンド80の前半で回られると言う事をお聞きしたときは、さすがと思いましたものの、議員のゴルフは殆ど平日に開催されていましたので、この4年間一度も山中先生とはご一緒した事もありませんでした。
山中先生のゴルフの腕前をこの目で拝見できたのは去る19日、森永高滝カントリークラブで開催された「山中教育長古希祝賀会」でのゴルフコンペでした。
セルフプレーが多くなって十分整備されたコースでゴルフをすることが少なくなった昨今、素晴らしいクラブ・ハウスとしっかりと整備されたコースでのプレーは、山中先生の古希をお祝いするコースとしては相応しいコースでした。
ゴルフの結果は、これを言いたいために久しぶりにブログを書いているのですが、70歳の山中先生グロスで86回、57歳の私グロスで83回でした。一回りも違う年齢ですから、実のところもっと差がつくであろうと考えていましたが、幸い調子のよかった私が山中先生のストロークを3つ上回る事ができてよかったと思います。この結果を見て「やすかねは、会の趣旨をわきまない」などと非難ごうごうでしたが、私はベスグロの他ドラコンとか、ニアピンも取ってしまいました。
山中先生が最初に『命あってのゴルフですから、ご注意を』という話をされていましたが、本当に暑い中、命をとられることもなく、無事終わった楽しいゴルフコンペとなりました。
今後は「山中杯」を創設すると言う事ですので、第一回の優勝者となるのは多分私でしょうという事をお伝えして久々のブログを終わりとします。また見てください。
2007年04月18日
知之者不如好之者 好之者不如楽之者
NHK3チャンネルで木曜日午後10時25分から「知るを楽しむ 歴史の好奇心」と言う番組に出会いました。4月は「日中二千年漢字の付き合い」といことで第2回を見たのですが「国格」という内容で、中国人はこの国格を重視するが日本人はあまり意識していないようです。周恩来は訪中したニクソンと乾杯をする際、自分のグラスの位置がニクソンと同じ高さになるように細心の注意をしていました。自分のグラスが相手より低いと中国の国格が傷着いてしまうからだそうです。
そんなことをテレビで見ていて『どうりで、スナックなどで乾杯をするとき、日本人のホステスがグラスを低くして客のグラスの底の方に自分のグラスの飲み口をつけているんだな、中国人のホステスの真似をしているのか』と思いました。
また毛沢東とで周恩来の死後、中国の最高権力者になったケ小平は背が低かったので、外国人の要人と会見するとき、相手の服のボタンあたりを見つめるようにして相手の顔を見上げることなしなかったということです。もし相手の顔を見ると子供と大人の対面のようになり、中国の国格が保てないからだと言うことです。
ですから、あまりそのようなことに注意を払わないで、背の低い日本人が背の高い外国人の顔をニコニコしながら見上げていると、中国人から見ると日本の政治家が貧相に見えると言うことです。外交交渉などと言うものもそんなところが出発点なのでしょうかね。
傘を差してあげたり、ドアーを開けたり、するのでなく尊大に構えていないと日本人は軽く見られてしまうのですね。韓国人も目上の人の前ではタバコなど吸うのはもってのほか、コップの水を飲むのも目上の人には隠して飲んだりします。
ですから、相手がどこの国の人かによって自分の立ち居振る舞いも考えなければ不要な誤解を与えてしまいます。以前書きましたが「無宗教です」などということも外国では禁句です。
ところで、中国では数千年もの間漢字が使われ、日本で漢字が使用され始めたのはなんと聖徳太子の頃からだそうで、これは日本に漢字が入ってから600年を経過していたそうです。それまでは漢字は文字でなく単なる図形とでもまた霊魂が宿っていたと考えられてもいたようです。魑魅魍魎などと言う熟語を見ますと、確かに不気味ですから中国人は漢字の書かれた紙は捨てないで「火葬」にしたそうです。
この国格と漢字の持つ意味から中国では未だ漢字を使わない前史(文字の記録のできる前の歴史)の日本人には卑しい、悪いイメージを持つ漢字を使っていたと言うことです。弥生時代の日本人に対し中国人は「倭」とか「萎」「矮」「奴」と言う字を使用し、日本人を「馬鹿」にしていたのですね。博多湾の志賀島から「漢委奴国王」の金印が発見されいますが、これは日本人の祖先が中国から喜んで貰ってきていたようです。その他興味を引くことが沢山書いてありますが、ここで、漢字のテストをして終わりにします。
次の漢字の内、中国でできた漢字が何個ありますか?正解はたった一個です。
科学、技術、哲学、自由、権利、義務、宗教、進化、経済、中華、人民、共和国、国会、憲法、司法、立法、行政、驚いたでしょう。日本人は江戸時代から漢字を楽しみ本家を超えていたのです。知之者不如好之者 好之者不如楽之者ということのようです。学問であれ仕事であれ、それについての知識を持つ人よりも、それが好きな人のほうがまさっている。それが好きな人よりも、それを楽しむ人のほうがすばらしい。ということのようです。(以上NHKテキストを参照しました)
そんなことをテレビで見ていて『どうりで、スナックなどで乾杯をするとき、日本人のホステスがグラスを低くして客のグラスの底の方に自分のグラスの飲み口をつけているんだな、中国人のホステスの真似をしているのか』と思いました。
また毛沢東とで周恩来の死後、中国の最高権力者になったケ小平は背が低かったので、外国人の要人と会見するとき、相手の服のボタンあたりを見つめるようにして相手の顔を見上げることなしなかったということです。もし相手の顔を見ると子供と大人の対面のようになり、中国の国格が保てないからだと言うことです。
ですから、あまりそのようなことに注意を払わないで、背の低い日本人が背の高い外国人の顔をニコニコしながら見上げていると、中国人から見ると日本の政治家が貧相に見えると言うことです。外交交渉などと言うものもそんなところが出発点なのでしょうかね。
傘を差してあげたり、ドアーを開けたり、するのでなく尊大に構えていないと日本人は軽く見られてしまうのですね。韓国人も目上の人の前ではタバコなど吸うのはもってのほか、コップの水を飲むのも目上の人には隠して飲んだりします。
ですから、相手がどこの国の人かによって自分の立ち居振る舞いも考えなければ不要な誤解を与えてしまいます。以前書きましたが「無宗教です」などということも外国では禁句です。
ところで、中国では数千年もの間漢字が使われ、日本で漢字が使用され始めたのはなんと聖徳太子の頃からだそうで、これは日本に漢字が入ってから600年を経過していたそうです。それまでは漢字は文字でなく単なる図形とでもまた霊魂が宿っていたと考えられてもいたようです。魑魅魍魎などと言う熟語を見ますと、確かに不気味ですから中国人は漢字の書かれた紙は捨てないで「火葬」にしたそうです。
この国格と漢字の持つ意味から中国では未だ漢字を使わない前史(文字の記録のできる前の歴史)の日本人には卑しい、悪いイメージを持つ漢字を使っていたと言うことです。弥生時代の日本人に対し中国人は「倭」とか「萎」「矮」「奴」と言う字を使用し、日本人を「馬鹿」にしていたのですね。博多湾の志賀島から「漢委奴国王」の金印が発見されいますが、これは日本人の祖先が中国から喜んで貰ってきていたようです。その他興味を引くことが沢山書いてありますが、ここで、漢字のテストをして終わりにします。
次の漢字の内、中国でできた漢字が何個ありますか?正解はたった一個です。
科学、技術、哲学、自由、権利、義務、宗教、進化、経済、中華、人民、共和国、国会、憲法、司法、立法、行政、驚いたでしょう。日本人は江戸時代から漢字を楽しみ本家を超えていたのです。知之者不如好之者 好之者不如楽之者ということのようです。学問であれ仕事であれ、それについての知識を持つ人よりも、それが好きな人のほうがまさっている。それが好きな人よりも、それを楽しむ人のほうがすばらしい。ということのようです。(以上NHKテキストを参照しました)
2007年02月24日
教員免許の更新制度
昨年10月安倍首相の肝いりでできた「教育再生会議」が、今年1月『今の公教育は機能不全だ』として再生の柱に「教員の質の向上」を掲げ、さらに安倍首相の施政方針演説で『教員の質が教育再生の鍵を握っています』と教員の免許更新制度の導入が表明されました。(2月23日朝日)
同日産経でも「教育再生会議」が指導不足教員の排除を主眼として教員免許の更新制度が提言に盛り込まれたとし、教員免許法の改正案が国会に提出される見込みであるとの報道・解説をしています。
毎日身近な法律問題を扱いながら、社会を見ていますと、わが国では政治・経済だけでなく、国の基本的枠組みを構成している根幹部分に腐食が進んでいるようです。
即ち、経済界では、電力業界などの大企業の違法行為だけでなく、資本主義社会を支える巨大銀行、保険会社、証券業界の不祥事があり、民主主義を支える新聞テレビの不祥事から、さらには頻発する社会的弱者相手の巨額詐欺事件、凶悪な殺人事件等々わが国はこれからどうなるのでしょうか。
このように将来が見え難くなった時は、過去を振り返り原点から考察する必要があります。明治開国から140年、わが国がこれだけ進歩したのも結局教育力しかありません。ですから、今後わが国の根幹を立て直すには現在の教育の問題点がどこにあるか、国家百年の計という大きな観点から再考察する必要がありますが、これはもう超専門家の仕事となり、能力範囲を超えています。
と言いながらも、やはり何か言いたくなります。23日朝日opinion◎news project 「教員の質」では、3氏の談話が掲載されていました。
元東京都の統括指導主事は全国に先駆け行なった「指導力ステップアップ研修」で『コミュニケーションと子供の評価ができない教員が特に増えていることがわかった』とコメントしているのですが、「服務事故」で処分を受けたような「例外的教師」を掲げてこれを一般化するような乱暴な議論を展開しています。
「指導力不足の認定は難しい」と客観的評価が難しいと述べながら、「なかなか本人が認めないからだ」などと主観と客観の区別もない、理解できない論旨を展開しています。さすが、できもしない「指導力不足教員」を認定して指導するなどという大それた制度の先駆けである東京都の指導主事です。この問題にコメントする資格はないですね。
この点「教員に必要な資質とは何か」と4つの基準を提起している野口克海氏は長年の現場での感覚から教師の負担の原因にまで遡り分析をくわえています。
僕なども学校の先生が権威を失ってきたのは、親の学歴が上昇してきた頃からではないか、と漠然と考えていたのですが、ピンポンのようです。
その外「子供たちが傷つきやすくなった」「学校にクレームをつける親が増えた」と人間関係での負担増加、教員の年齢構成の歪み、結論とすれば「学校の社会的評価が下がっている」として、今後は学校の社会的地位を上げ、教員の待遇改善と公立学校の設備面の確保が必要としています。
悪平等(頑張っても頑張らなくてを給料は同じ)をなくし、良い人材を集めるのが必要であり、教員免許の更新制度などの小手先の制度改革ではなく、教員を学校現場で育て上げる仕組みづくりが必要としています。
さらに佐久間亜紀氏は、「政府は『質の低下』を前提に教育改革を進めようとしている。が『質』が下がった実証的データはないのに一方的決め付けで(元東京都の指導主事の言うとおり難しいのです)議論するのは乱暴」とのべ、各国の教育予算のGDPに占める割合などを出しながら教員の人材確保の重要性を述べています。
仕事のやりがい、自律性、社会的地位、公務員としての安定感など多くの魅力が若者を引き付けなければならない、保護者から尊敬されなくなり、管理が強化され、給与が削減され、資格まで有効期限付きとなれば、優秀な若者ほど他の職業を志向するのが自然ではないかと述べています。
要するに教員という職業が子供の憧れとなり、『僕も私も大きくなったら学校の先生になるのだ』という夢を与えられるものである必要があります。そういう意味で「家の父ちゃん稼ぎが悪い、馬鹿だから」と悪口を言われているようでは夫の権威がなくなると同じで、多少学歴があるということで教員を尊敬しない親の子は、しょせん立派な大人にはなれないでしょう。「親の因果が子に移り」ですね。
同日産経でも「教育再生会議」が指導不足教員の排除を主眼として教員免許の更新制度が提言に盛り込まれたとし、教員免許法の改正案が国会に提出される見込みであるとの報道・解説をしています。
毎日身近な法律問題を扱いながら、社会を見ていますと、わが国では政治・経済だけでなく、国の基本的枠組みを構成している根幹部分に腐食が進んでいるようです。
即ち、経済界では、電力業界などの大企業の違法行為だけでなく、資本主義社会を支える巨大銀行、保険会社、証券業界の不祥事があり、民主主義を支える新聞テレビの不祥事から、さらには頻発する社会的弱者相手の巨額詐欺事件、凶悪な殺人事件等々わが国はこれからどうなるのでしょうか。
このように将来が見え難くなった時は、過去を振り返り原点から考察する必要があります。明治開国から140年、わが国がこれだけ進歩したのも結局教育力しかありません。ですから、今後わが国の根幹を立て直すには現在の教育の問題点がどこにあるか、国家百年の計という大きな観点から再考察する必要がありますが、これはもう超専門家の仕事となり、能力範囲を超えています。
と言いながらも、やはり何か言いたくなります。23日朝日opinion◎news project 「教員の質」では、3氏の談話が掲載されていました。
元東京都の統括指導主事は全国に先駆け行なった「指導力ステップアップ研修」で『コミュニケーションと子供の評価ができない教員が特に増えていることがわかった』とコメントしているのですが、「服務事故」で処分を受けたような「例外的教師」を掲げてこれを一般化するような乱暴な議論を展開しています。
「指導力不足の認定は難しい」と客観的評価が難しいと述べながら、「なかなか本人が認めないからだ」などと主観と客観の区別もない、理解できない論旨を展開しています。さすが、できもしない「指導力不足教員」を認定して指導するなどという大それた制度の先駆けである東京都の指導主事です。この問題にコメントする資格はないですね。
この点「教員に必要な資質とは何か」と4つの基準を提起している野口克海氏は長年の現場での感覚から教師の負担の原因にまで遡り分析をくわえています。
僕なども学校の先生が権威を失ってきたのは、親の学歴が上昇してきた頃からではないか、と漠然と考えていたのですが、ピンポンのようです。
その外「子供たちが傷つきやすくなった」「学校にクレームをつける親が増えた」と人間関係での負担増加、教員の年齢構成の歪み、結論とすれば「学校の社会的評価が下がっている」として、今後は学校の社会的地位を上げ、教員の待遇改善と公立学校の設備面の確保が必要としています。
悪平等(頑張っても頑張らなくてを給料は同じ)をなくし、良い人材を集めるのが必要であり、教員免許の更新制度などの小手先の制度改革ではなく、教員を学校現場で育て上げる仕組みづくりが必要としています。
さらに佐久間亜紀氏は、「政府は『質の低下』を前提に教育改革を進めようとしている。が『質』が下がった実証的データはないのに一方的決め付けで(元東京都の指導主事の言うとおり難しいのです)議論するのは乱暴」とのべ、各国の教育予算のGDPに占める割合などを出しながら教員の人材確保の重要性を述べています。
仕事のやりがい、自律性、社会的地位、公務員としての安定感など多くの魅力が若者を引き付けなければならない、保護者から尊敬されなくなり、管理が強化され、給与が削減され、資格まで有効期限付きとなれば、優秀な若者ほど他の職業を志向するのが自然ではないかと述べています。
要するに教員という職業が子供の憧れとなり、『僕も私も大きくなったら学校の先生になるのだ』という夢を与えられるものである必要があります。そういう意味で「家の父ちゃん稼ぎが悪い、馬鹿だから」と悪口を言われているようでは夫の権威がなくなると同じで、多少学歴があるということで教員を尊敬しない親の子は、しょせん立派な大人にはなれないでしょう。「親の因果が子に移り」ですね。
2007年02月01日
賢人たちの教育論議(塾禁止)
政府の教育再生会議の議事要旨では座長を務める野依良治氏が「塾はできない子が行くためには必要だが、普通以上の子供は塾禁止にすべきだ。公教育を再生させる代わりに塾禁止とする」と再三にわたって強調し「昔できたことがなぜ今できないのか。我々は塾に行かずにやってきた。塾の商業政策に乗っているのではないか」と訴え。
これに対しJR東海会長の葛西敬之氏は「日本の数学のレベルは学校ではなくて、塾によって維持されている、という面もある」と反論したものの、事務局側は「公教育が再生されれば、自然と塾は競争力を失っていく。結果的になくなる」と座長に同調的発言を行い、国際教養大学長の中嶋嶺雄氏も「野依座長のおっしゃったように塾禁止ぐらいの大きな提言をやらないと」と盛り上がりを見せた。(朝日12月24日)と教育再生会議の模様を伝えています。
政府の教育再生会議と言うのは、これからの日本の未来を輝かしいものとするため、教育を再生させるため日本の賢人を集めての議論と思うのですが、この程度の議論で盛り上がりを見せている、と報道されては日本の教育が本当に再生できると考える人は少ないと思います。
最近、黒船で浦賀にきたペリーは日本の家庭から本を読む声が聞こえるのを聞いて、この国が西欧の技術を取り入れれば、西欧列強に追いついてくるというようなことを喋ったのですが、子供の教育がその国の未来を暗示させることは何時の時代でも同じです。
そう考えますと、わが国の賢人たちはこの国の教育をどのように位置づけしているか、などと疑問を差し挟む必要もなく「教育は極めて重要事項」とお考えのことと思います。
しかし、問題は「教育は重要である」と言うような抽象的なものではなく、現在の教育の荒廃は何を原因としているか、その根本的理由を賢人たちは議論しなければならないと思います。再生会議で議論していることをホームページなどで拝見することもできるのですが、新聞記事も大切なところを引用していると理解して自分では敢えてホームページを見ることもなく、自論を述べさせていただきます。
教育に関して、様々な問題点が指摘され始めたのは1970年代頃からだと考えています。何が変わったかと言うと国立大学の選抜方式に変化が出てきました。つまり文部省が大学入試をいじくり回し始めた頃ではないかと思っています。
昔、国立大学は一期校・二期校の分類しかなく、一期・二期で「レベル」が違っていたのですが、このような分類は「大学格差を生じる」「不公正な選別につながる」などとの観点から文部省(の下部機関)の実施する「共通一次試験」が始まったのです。現在ではセンター試験に「発展」し、多くの私立学校が参加していますが、この裏には文部省から大学への補助金が影響していると思います。
憲法では大学の自治・独立を保障するため、「公金その他の公の財産は、・・公の支配に属しない・・教育・・の事業に対し、これを支出してはならない。」(憲法89条)と定めているのですが、大学教育は広く社会に貢献しているにもかかわらず、憲法の規定があるから補助金を出してはいけないということは、逆に国民の教育を受ける権利を侵害するものでもあるから、私学に公金を支出しないほうが問題である、と考え私学助成を始めたと思うのです。しかし現実はこの考え方を逆手にとって、文部省は大学に介入を始めたと思います。
そして、一度大学入試制度が変わり始めますと、予備校、高校、有名私立中学とどんどん勉強方法が変化し、大学入試に必要な限度しか勉強しなくなります。県立高校での未履修問題も根っこは同じです。大学が卒業後の職業を決定し、一生の収入がどこの大学を卒業して、如何なる資格を有するかにかかわってくるからです。嫁さんだって変わってしまうのです。
私たちの大学生の頃から、学生の親の所得で一番高い大学が東大である、といわれていたのですが、要するに東大卒の親は、高い社会的地位を有し、収入も多いことから自分の子供に優秀な大学を卒業させ、自分と同じように高収入を得て楽しい人生を送らせようと考える親心からです。当然といえば当然です。
しかし、当時はまだ私達のように中卒の親しか持たなくとも自分ががんばることができれば親の学歴の限界を超えることも不可能ではなかったのですが、現在になっては成績が少々優秀であっても親の学歴が低く収入も少ない場合、子供は中々有名大学に入ることは大変となっています。昔、といっても30年ほど前は、学歴が社会的格差の解消に役立ったのですが、現在では学歴が社会的格差を拡大しているのです。
既に西欧ではそのような意味での階層社会・格差社会が出来上がり、子供一代で社会的に優位な立場に上ることが困難となっています。即ち、本来であれば夢も希望もある少年時代、既にある種の諦めを意識しなければ生きてゆけない、ぼんやりと未来のない社会が意識されていると思います。誰でも夢と希望があれば、がんばれるのですが、将来を閉ざされてしまった子供たちは不幸な存在となっています。このような格差は現在もどんどん広がりつつあります。
社会的に極めて優秀な一握りの子供たち、または全国レベルのスポーツ選手などはまだ将来はあるのですが、大多数の子供たちは夢も希望もなくなっているのです。
それでもまだ、社会が産業資本主義社会であり、優秀な技術を身につけ、立派な技術者として社会に貢献できれば、将来の可能性は開けるのですが、現在の高度な科学技術は物の生産現場でも単純労働しか必要ありませんので、ボーダレスの社会となって企業が単純労働者を求め、低賃金の中国などに進出すれば、国内的には一部高度な技術者がいれば足りてしまうのです。末端の労働者の賃金は限りなく中国に近づきます。
従って、わが国の産業としては既に多くの人を必要とせず、いわゆるIT革命といわれる高度な機械を操作できる、また他の人が知らない知識を持っている一部知識人しか社会として必要でなくなってしまいます。(喜怒哀楽131ページ「可能性奪うゆとり教育」171ページ「奴隷以下だよフリーター」)
このように考えてきますと、野依座長が言うように単純に塾を禁止すれば教育の問題が解決できるなどと考えるほど事は簡単ではないのです。社会的に優位な立場の親は自分の子供を一日でも早く勉強させ、将来優位な職業につけるように教育するのです。何時でしたか書きかましたが、六本木ヒルズ族では家庭教師に時間給20万円を支払う、などと信じられないほどの報酬を払ってでも自分の子供に教育を施すのです。(喜怒哀楽204ページ「金持ちはますます金持ちに」、213ページ「2004年納会」)
その結果、会社経営者、知識人、政治家など当たり前、本来世襲できないような芸術家、スポーツ選手までもが親が高学歴と高収入でなければ有名にはなれないのです。
ごちゃごちゃと考えを進め、今の教育を再生しようと考えますと、それでは相続税を高くして親の財産を子供に相続させないのが良いのか、日本中の子供を一箇所に集め同じような教育を施して自由に競争させるのが良いのか(喜怒哀楽106ページ「教育と受験・競争」)などと言う非現実的な方法しか浮かんでこないのです。いずれにしても教育再生会議での議論のように塾禁止ですむような問題でないことだけは明らかです。
子供たち全員に夢と希望の持てる社会を残すことはとんでもなく大変ですね。
これに対しJR東海会長の葛西敬之氏は「日本の数学のレベルは学校ではなくて、塾によって維持されている、という面もある」と反論したものの、事務局側は「公教育が再生されれば、自然と塾は競争力を失っていく。結果的になくなる」と座長に同調的発言を行い、国際教養大学長の中嶋嶺雄氏も「野依座長のおっしゃったように塾禁止ぐらいの大きな提言をやらないと」と盛り上がりを見せた。(朝日12月24日)と教育再生会議の模様を伝えています。
政府の教育再生会議と言うのは、これからの日本の未来を輝かしいものとするため、教育を再生させるため日本の賢人を集めての議論と思うのですが、この程度の議論で盛り上がりを見せている、と報道されては日本の教育が本当に再生できると考える人は少ないと思います。
最近、黒船で浦賀にきたペリーは日本の家庭から本を読む声が聞こえるのを聞いて、この国が西欧の技術を取り入れれば、西欧列強に追いついてくるというようなことを喋ったのですが、子供の教育がその国の未来を暗示させることは何時の時代でも同じです。
そう考えますと、わが国の賢人たちはこの国の教育をどのように位置づけしているか、などと疑問を差し挟む必要もなく「教育は極めて重要事項」とお考えのことと思います。
しかし、問題は「教育は重要である」と言うような抽象的なものではなく、現在の教育の荒廃は何を原因としているか、その根本的理由を賢人たちは議論しなければならないと思います。再生会議で議論していることをホームページなどで拝見することもできるのですが、新聞記事も大切なところを引用していると理解して自分では敢えてホームページを見ることもなく、自論を述べさせていただきます。
教育に関して、様々な問題点が指摘され始めたのは1970年代頃からだと考えています。何が変わったかと言うと国立大学の選抜方式に変化が出てきました。つまり文部省が大学入試をいじくり回し始めた頃ではないかと思っています。
昔、国立大学は一期校・二期校の分類しかなく、一期・二期で「レベル」が違っていたのですが、このような分類は「大学格差を生じる」「不公正な選別につながる」などとの観点から文部省(の下部機関)の実施する「共通一次試験」が始まったのです。現在ではセンター試験に「発展」し、多くの私立学校が参加していますが、この裏には文部省から大学への補助金が影響していると思います。
憲法では大学の自治・独立を保障するため、「公金その他の公の財産は、・・公の支配に属しない・・教育・・の事業に対し、これを支出してはならない。」(憲法89条)と定めているのですが、大学教育は広く社会に貢献しているにもかかわらず、憲法の規定があるから補助金を出してはいけないということは、逆に国民の教育を受ける権利を侵害するものでもあるから、私学に公金を支出しないほうが問題である、と考え私学助成を始めたと思うのです。しかし現実はこの考え方を逆手にとって、文部省は大学に介入を始めたと思います。
そして、一度大学入試制度が変わり始めますと、予備校、高校、有名私立中学とどんどん勉強方法が変化し、大学入試に必要な限度しか勉強しなくなります。県立高校での未履修問題も根っこは同じです。大学が卒業後の職業を決定し、一生の収入がどこの大学を卒業して、如何なる資格を有するかにかかわってくるからです。嫁さんだって変わってしまうのです。
私たちの大学生の頃から、学生の親の所得で一番高い大学が東大である、といわれていたのですが、要するに東大卒の親は、高い社会的地位を有し、収入も多いことから自分の子供に優秀な大学を卒業させ、自分と同じように高収入を得て楽しい人生を送らせようと考える親心からです。当然といえば当然です。
しかし、当時はまだ私達のように中卒の親しか持たなくとも自分ががんばることができれば親の学歴の限界を超えることも不可能ではなかったのですが、現在になっては成績が少々優秀であっても親の学歴が低く収入も少ない場合、子供は中々有名大学に入ることは大変となっています。昔、といっても30年ほど前は、学歴が社会的格差の解消に役立ったのですが、現在では学歴が社会的格差を拡大しているのです。
既に西欧ではそのような意味での階層社会・格差社会が出来上がり、子供一代で社会的に優位な立場に上ることが困難となっています。即ち、本来であれば夢も希望もある少年時代、既にある種の諦めを意識しなければ生きてゆけない、ぼんやりと未来のない社会が意識されていると思います。誰でも夢と希望があれば、がんばれるのですが、将来を閉ざされてしまった子供たちは不幸な存在となっています。このような格差は現在もどんどん広がりつつあります。
社会的に極めて優秀な一握りの子供たち、または全国レベルのスポーツ選手などはまだ将来はあるのですが、大多数の子供たちは夢も希望もなくなっているのです。
それでもまだ、社会が産業資本主義社会であり、優秀な技術を身につけ、立派な技術者として社会に貢献できれば、将来の可能性は開けるのですが、現在の高度な科学技術は物の生産現場でも単純労働しか必要ありませんので、ボーダレスの社会となって企業が単純労働者を求め、低賃金の中国などに進出すれば、国内的には一部高度な技術者がいれば足りてしまうのです。末端の労働者の賃金は限りなく中国に近づきます。
従って、わが国の産業としては既に多くの人を必要とせず、いわゆるIT革命といわれる高度な機械を操作できる、また他の人が知らない知識を持っている一部知識人しか社会として必要でなくなってしまいます。(喜怒哀楽131ページ「可能性奪うゆとり教育」171ページ「奴隷以下だよフリーター」)
このように考えてきますと、野依座長が言うように単純に塾を禁止すれば教育の問題が解決できるなどと考えるほど事は簡単ではないのです。社会的に優位な立場の親は自分の子供を一日でも早く勉強させ、将来優位な職業につけるように教育するのです。何時でしたか書きかましたが、六本木ヒルズ族では家庭教師に時間給20万円を支払う、などと信じられないほどの報酬を払ってでも自分の子供に教育を施すのです。(喜怒哀楽204ページ「金持ちはますます金持ちに」、213ページ「2004年納会」)
その結果、会社経営者、知識人、政治家など当たり前、本来世襲できないような芸術家、スポーツ選手までもが親が高学歴と高収入でなければ有名にはなれないのです。
ごちゃごちゃと考えを進め、今の教育を再生しようと考えますと、それでは相続税を高くして親の財産を子供に相続させないのが良いのか、日本中の子供を一箇所に集め同じような教育を施して自由に競争させるのが良いのか(喜怒哀楽106ページ「教育と受験・競争」)などと言う非現実的な方法しか浮かんでこないのです。いずれにしても教育再生会議での議論のように塾禁止ですむような問題でないことだけは明らかです。
子供たち全員に夢と希望の持てる社会を残すことはとんでもなく大変ですね。
2006年12月12日
教育基本法改正論議
教育基本法の改正問題が大きな政治問題となり、だいぶ時間が経過しています。自民党も民主党も大方「改正」を唱えているのですが、未だ改正の必要性とか、教育の原理原則とか、憲法との関係などについてどのような議論をしているのか、がよく判りません。実のところ、教育基本法を議論している国会議員のセンセ憲法の原則から理解できている人は少数ではないか、などと非常に偉そうに思っているのです。
市議会でもこの問題が議論となりそうなので、若干書いて見ます。「県議会レベル」(?)となりうるか、一つ問題もあるでしょうが、質問中居眠りをこかないように、また仮に居眠りをしても、口など開けて寝ないようにしなければ、・・などと、嫌味など考えながら筆を進めます。
市議会議員の自宅に送られてくる「アイデアルファミリー」という月刊誌があります。良いことも沢山書かれているので、時々拝見しているのですが、12月号は「教育から始まる国の再生」と表紙に書かれていました。この短い言葉が教育基本法を改正しようとしている人々の意見を凝縮しているようです。
すなわち、教育を再生することが「国を救う」と言うのですが、このフレーズの範囲で「教育」をわかり易く(?)解説しますと、「教育」とは一人ひとりの子供(生涯教育を含めると国民)をとりあえず一人前(人格の完成などと言うのは究極のこと)に成長させ、国家社会の役に立つ国民としよう、最終的目的は「国家・社会の繁栄」と考えています。一人ひとりの国民の自立を尊重するものではなく、国家社会のために教育する、この出発点が異なっているのです。
現行教育基本法と改正案とは、共にその前文で「日本国憲法の精神に則り」と書いてあります。現行法は憲法の精神というか最高の理念は個人にあると考えているのですが、改正案は複雑な論理構成で「個人の尊厳を重んじ」とは書いてあるものの、個人よりは「公共」もう少しいいますと「伝統を承継する国家」すなわち連綿と続く「日本国家」であるようです。
この基本的考え方は、各条文に入ってきますと段々明白となってきます。すなわち第一条では改正法と現行法でその内容に大差はないようですが、どのような国民になってもらうために教育をするのか、と考えますと、現行法と改正法が人格の完成、平和的な国家社会の形成者までは、ほぼ同じでも、その後は現行法が真理・正義・個人の価値・勤労・責任・自主的精神・心身ともに健康な国民と続くのに対し、改正案では個人の尊厳を表現するものが消え「必要な資質」とあるように個人を離れた誰かが価値判断を持ち込める、そのような内容になっています。
第2条以下も、視点は個人と国家、個人の自立と国家の必要、と言う表現に集約されています。
愛国心も今回の改正での重要論点といわれますが、国民が「愛国心を育てたい。」と考えるのはご尤もとしても、これは憲法に基づく政治が進められる中で自然と涵養されるもので、憲法とか教育基本法に記載すべきものではないでしょう。憲法とか教育基本法は法の性質上そうではないのです。
プロイセン憲法を参考にして作られた明治憲法も「立憲主義的憲法」であることは伊藤博文、森有礼(アリノリ)も当たり前のことですから、現在の国会議員たちが憲法は国家権力の制限規範であることを理解できていないことは真にもって残念というか、あきれますね。
結局、この教育基本法の改正問題を考える出発点は個人と国家のいずれから考え始めるのかと言うことです。イジメ問題とかタウンミーティングの問題から教育基本法を論じている節もあるのですが、全くナンセンスです。教育の出発点は現行の教育基本法のいうように、一人ひとりの子供(国民)の人格の完成を目的とする。そして、その延長線上に国家社会の発展があるということです。
市議会でもこの問題が議論となりそうなので、若干書いて見ます。「県議会レベル」(?)となりうるか、一つ問題もあるでしょうが、質問中居眠りをこかないように、また仮に居眠りをしても、口など開けて寝ないようにしなければ、・・などと、嫌味など考えながら筆を進めます。
市議会議員の自宅に送られてくる「アイデアルファミリー」という月刊誌があります。良いことも沢山書かれているので、時々拝見しているのですが、12月号は「教育から始まる国の再生」と表紙に書かれていました。この短い言葉が教育基本法を改正しようとしている人々の意見を凝縮しているようです。
すなわち、教育を再生することが「国を救う」と言うのですが、このフレーズの範囲で「教育」をわかり易く(?)解説しますと、「教育」とは一人ひとりの子供(生涯教育を含めると国民)をとりあえず一人前(人格の完成などと言うのは究極のこと)に成長させ、国家社会の役に立つ国民としよう、最終的目的は「国家・社会の繁栄」と考えています。一人ひとりの国民の自立を尊重するものではなく、国家社会のために教育する、この出発点が異なっているのです。
現行教育基本法と改正案とは、共にその前文で「日本国憲法の精神に則り」と書いてあります。現行法は憲法の精神というか最高の理念は個人にあると考えているのですが、改正案は複雑な論理構成で「個人の尊厳を重んじ」とは書いてあるものの、個人よりは「公共」もう少しいいますと「伝統を承継する国家」すなわち連綿と続く「日本国家」であるようです。
この基本的考え方は、各条文に入ってきますと段々明白となってきます。すなわち第一条では改正法と現行法でその内容に大差はないようですが、どのような国民になってもらうために教育をするのか、と考えますと、現行法と改正法が人格の完成、平和的な国家社会の形成者までは、ほぼ同じでも、その後は現行法が真理・正義・個人の価値・勤労・責任・自主的精神・心身ともに健康な国民と続くのに対し、改正案では個人の尊厳を表現するものが消え「必要な資質」とあるように個人を離れた誰かが価値判断を持ち込める、そのような内容になっています。
第2条以下も、視点は個人と国家、個人の自立と国家の必要、と言う表現に集約されています。
愛国心も今回の改正での重要論点といわれますが、国民が「愛国心を育てたい。」と考えるのはご尤もとしても、これは憲法に基づく政治が進められる中で自然と涵養されるもので、憲法とか教育基本法に記載すべきものではないでしょう。憲法とか教育基本法は法の性質上そうではないのです。
プロイセン憲法を参考にして作られた明治憲法も「立憲主義的憲法」であることは伊藤博文、森有礼(アリノリ)も当たり前のことですから、現在の国会議員たちが憲法は国家権力の制限規範であることを理解できていないことは真にもって残念というか、あきれますね。
結局、この教育基本法の改正問題を考える出発点は個人と国家のいずれから考え始めるのかと言うことです。イジメ問題とかタウンミーティングの問題から教育基本法を論じている節もあるのですが、全くナンセンスです。教育の出発点は現行の教育基本法のいうように、一人ひとりの子供(国民)の人格の完成を目的とする。そして、その延長線上に国家社会の発展があるということです。
2006年11月14日
「タフ」になれイジメ問題
いじめ問題は、とうとう学校長が自殺するまでにエスカレートしてしまいました。これまでテレビでは、自殺した子供の父兄の前で担任と校長先生などが土下座し、肉親から糾弾されている画面を何度かテレビで報道されているのを見ましたが、それは正常な神経では正視できるものでなく、テレビ関係者の独善的・無責任な体質が現れていました。
マスコミは、自分たちの過熱報道が校長を自殺に追い込んだのだ、なんてことは口が裂けても言わないでしょうが、この間の報道姿勢を見直す勇気が必要と考えます。特にいじめをなくそうという方向での報道は、単なる無責任な奇麗事であり、いじめをなくす事は不可能である(存在が必然)ことを知るべきです。
これまでも、企業の不祥事などがあるたびに会社役員がテレビの前で深々と頭を下げ、テレビキャスターなどが「自分たちこそ正義の体現者」気取りで解説していましたが、子供がいじめを苦にして自殺したとの報道があるたびにその矛先が教育関係者に向けられ、糾弾の対象とされている事は、やっぱりわが国特有(?)の集団ヒステリー状態だと思います。
子供が自殺した場合必ず「いじめがあったのか、なかったのか」が問題となり、いじめの存在を十分認識できていなかった学校はその責任を絶対免れられません。しかし、金銭の恐喝事件を「金銭トラブル」と腰の引けた認識をすることは新聞各社もこれまでにもやっていることです。明らかな被害者からの事件報告があってもマスコミは「当事者の公平な報道」から「トラブルに巻き込まれた」と報道し、被害者の感情を逆なでしている事は枚挙に暇がありません。
自殺した校長もそのような感覚で「金銭トラブル」と表現したのでしょうが、マスコミは「いじめ撲滅」という錦の御旗があるから、今回は「事件」だというのでしょうね。その結果安直に「金銭トラブル」と報告してしまった校長はマスコミの「逆鱗」に触れてしまい、これまでのテレビ報道のように全国民の前で土下座させられる恐怖感から自殺してしまったのではないか、そんな風に考えますが、校長の自殺は「事件」ではないのでしょうかね。
先日、作家の阿部譲二氏は、新聞で、いじめは大人の社会にだってあるんだ、だから子供はもっとタフにならなければだめだ、というようなことを述べていましたが、全くその通りだと思います。人間の社会に限らず何処にだっていじめはあるのであり、子供の頃、鶏舎に入れられた多数の鶏が一羽の鶏の尻から血が出るまでイジメており、イジメられている鶏を可哀想に思ったものです。
仮に、学校でイジメなど皆無で子供たちは一切嫌な事を経験せず、無菌状態で純粋培養されて成長し、社会にまた国際社会に出たらどうでしょうか、その様にして成長した人は人間を疑う事もできず、騙され、そのうちに命だってとられてしまうでしょう。
戦後61年、平和ボケといわれる日本人は多かれ少なかれ純粋培養されている傾向があります。その証拠に海外に旅行すれば、日本人は外国人から内心では馬鹿にされ、詐欺同前の商売に対しても金離れの良い、お人好し国民ですし、国際社会でも馬鹿にされ、あの北朝鮮からも六カ国協議に出なくても良いなどとおちょくられているのです。北朝鮮だけには言われたくないですね。
結局、人間誰でも子供のころからだけでなく、大人になっても、イジメられたり、イジメたりで成長し発展するのです。イジメ対しての免疫・抵抗力がついてこそ一人前になれると思いますので、タフな人間でなければ「生きられない社会」が現実ですから、単に奇麗事を言うのではなく、要するに打たれ強い、泥臭く、裸の付き合いこそ必要だと思います。
それにしても、気の毒なのが学校の先生です。子供をペットのように育てた親から、嫌な事を強制するな、体罰は絶対いかん、無視もするな、といわれては教室をフラフラ歩くだけでなく、外の子供にちょっかいを出す生徒に注意もできません。注意をしても聞き入れられず、お尻を叩けば体罰ですし、お尻をなぜたりすればセクハラです。これでは手足を縛られ、プールで泳げといわれているのと同じです。
子供に限らず人間は失敗をしてはじめて勉強し成長するものですから、未だ日本語が十分に理解できない子共に対して失敗を気付かせるには失敗した手をピシャリと叩いても体罰なのでしょうかね。先日警察署で、集団で監禁・暴行・強盗致傷で逮捕されている21歳に対し、「お前な、一人に対し集団で暴行して卑怯な事と思わないか」と言ってきたのですが、この連中は子供のときショック(制裁)を手早くシャープに加えておくべき類型の人間と思うのですが・・。既に手遅れですかね?手遅れなら、社会からの隔離しかないのです。この隔離にも大変な税金がかかります。
マスコミは、自分たちの過熱報道が校長を自殺に追い込んだのだ、なんてことは口が裂けても言わないでしょうが、この間の報道姿勢を見直す勇気が必要と考えます。特にいじめをなくそうという方向での報道は、単なる無責任な奇麗事であり、いじめをなくす事は不可能である(存在が必然)ことを知るべきです。
これまでも、企業の不祥事などがあるたびに会社役員がテレビの前で深々と頭を下げ、テレビキャスターなどが「自分たちこそ正義の体現者」気取りで解説していましたが、子供がいじめを苦にして自殺したとの報道があるたびにその矛先が教育関係者に向けられ、糾弾の対象とされている事は、やっぱりわが国特有(?)の集団ヒステリー状態だと思います。
子供が自殺した場合必ず「いじめがあったのか、なかったのか」が問題となり、いじめの存在を十分認識できていなかった学校はその責任を絶対免れられません。しかし、金銭の恐喝事件を「金銭トラブル」と腰の引けた認識をすることは新聞各社もこれまでにもやっていることです。明らかな被害者からの事件報告があってもマスコミは「当事者の公平な報道」から「トラブルに巻き込まれた」と報道し、被害者の感情を逆なでしている事は枚挙に暇がありません。
自殺した校長もそのような感覚で「金銭トラブル」と表現したのでしょうが、マスコミは「いじめ撲滅」という錦の御旗があるから、今回は「事件」だというのでしょうね。その結果安直に「金銭トラブル」と報告してしまった校長はマスコミの「逆鱗」に触れてしまい、これまでのテレビ報道のように全国民の前で土下座させられる恐怖感から自殺してしまったのではないか、そんな風に考えますが、校長の自殺は「事件」ではないのでしょうかね。
先日、作家の阿部譲二氏は、新聞で、いじめは大人の社会にだってあるんだ、だから子供はもっとタフにならなければだめだ、というようなことを述べていましたが、全くその通りだと思います。人間の社会に限らず何処にだっていじめはあるのであり、子供の頃、鶏舎に入れられた多数の鶏が一羽の鶏の尻から血が出るまでイジメており、イジメられている鶏を可哀想に思ったものです。
仮に、学校でイジメなど皆無で子供たちは一切嫌な事を経験せず、無菌状態で純粋培養されて成長し、社会にまた国際社会に出たらどうでしょうか、その様にして成長した人は人間を疑う事もできず、騙され、そのうちに命だってとられてしまうでしょう。
戦後61年、平和ボケといわれる日本人は多かれ少なかれ純粋培養されている傾向があります。その証拠に海外に旅行すれば、日本人は外国人から内心では馬鹿にされ、詐欺同前の商売に対しても金離れの良い、お人好し国民ですし、国際社会でも馬鹿にされ、あの北朝鮮からも六カ国協議に出なくても良いなどとおちょくられているのです。北朝鮮だけには言われたくないですね。
結局、人間誰でも子供のころからだけでなく、大人になっても、イジメられたり、イジメたりで成長し発展するのです。イジメ対しての免疫・抵抗力がついてこそ一人前になれると思いますので、タフな人間でなければ「生きられない社会」が現実ですから、単に奇麗事を言うのではなく、要するに打たれ強い、泥臭く、裸の付き合いこそ必要だと思います。
それにしても、気の毒なのが学校の先生です。子供をペットのように育てた親から、嫌な事を強制するな、体罰は絶対いかん、無視もするな、といわれては教室をフラフラ歩くだけでなく、外の子供にちょっかいを出す生徒に注意もできません。注意をしても聞き入れられず、お尻を叩けば体罰ですし、お尻をなぜたりすればセクハラです。これでは手足を縛られ、プールで泳げといわれているのと同じです。
子供に限らず人間は失敗をしてはじめて勉強し成長するものですから、未だ日本語が十分に理解できない子共に対して失敗を気付かせるには失敗した手をピシャリと叩いても体罰なのでしょうかね。先日警察署で、集団で監禁・暴行・強盗致傷で逮捕されている21歳に対し、「お前な、一人に対し集団で暴行して卑怯な事と思わないか」と言ってきたのですが、この連中は子供のときショック(制裁)を手早くシャープに加えておくべき類型の人間と思うのですが・・。既に手遅れですかね?手遅れなら、社会からの隔離しかないのです。この隔離にも大変な税金がかかります。
2006年08月07日
ゆとり教育がさらに「階級化社会」を生む
ゆとり教育の反省(無責任体質)と題して04年3月31日に少々激しい事を書きました(喜怒哀楽122ページ)。その続編というには時間がたちましたが、また少し書きます。その外「可能性を奪う『ゆとり教育』」(131ページ)、「『借金』漬けの司法修習生の巻」(55ページ)も参照してください。
5月2日の産経には「国語力10年前に比べ低下」また7月16日朝日には「世界一短い中2の宿題時間」としてそれぞれデータが掲載されていました。
「全国都道府県教育長協議会」の調査では、各都道府県で国語力向上のために取り組みをしている小中高校各5校ずつ抽出して調べたところ、10年前に比べ国語力が低下したと考えている学校が小学校で6割、中学校で7割、高校生で9割であり、その理由は読書量の低下、コミュニケーション手段の変化、国語の授業が減ったからと考えられ、具体的にどんな力が低下したかについては「語彙力」が突出し、次いで「自分の考えをまとめて書く」力を上げています。
次は国際教育到達度評価学会(本部・オランダ)が03年46カ国22万5千人の中学2年生を調べたところ、家で宿題をする時間は日本が世界一短く、たった1時間という事です。家の手伝いも36分で下から2番目、それでは何をしているかといえばダントツの世界一であるのが2時間42分テレビを見ているということです。
人間、基本的に生きてゆくために仕事(自然に働きかけて食料を獲得し、飢餓に備えて蓄え)をし、その様な中で頭を使い、人間の知能を発達させてきたと思います。様々な技術・文化も仕事をする中で進歩していると思います。この人間の知能・文化発展にも言葉が不可欠ですし、日本人であれば、当然日本語で考え、漢字の読み書きをします。
中学生の頃は、柔軟な思考ができ、大人では困難な丸暗記でもますが、この時期に宿題もせず、テレビ漬けでは思考能力が劣ってくる事は明らかです。これもあれも皆「ゆとり教育」という名の放し飼いの結果と思います。
今日8月7日は、京都大学の西村和雄教授が「ゆとり教育が生み出す階級化社会」と題して「正論」を論じていました。
大学生の親の収入の一番は東大といわれて久しい(前出132ページ)のですが、このことは要するに親が自分の子供にどれほどの教育を施せるか、その結果が子供の学歴に現れているということです。小さいときからしっかりとしたレールに乗せる事ができればその後は、すいすいと進学し、大学を卒業後は中央の公務員の仲間入り(昔で言えば武士社会)ができ、将来安泰という事です。
論旨は、「格差社会」という言葉が流行しているが、差を生み出す個々の問題の本質を曖昧にしてしまう危険がある、たとえば大量のフリーター、ニートは学力も技術も身につけず卒業した人々であり、しいて言えば「ゆとり教育」の犠牲者であると、断じています。
また、非常に面白いと感じたのは、教授の調査によると大学卒業生の所得差を比べると、共通一次前に入学した卒業後の平均年収は親の学力が影響していたが、その後は平均年収に影響していたのは科目選択であり、数学を選択した人は社会を選択した人よりも年100万円以上高かったそうです。
これから、「教育が所得格差を生む」と結論付けています。そんなこと分かりきっているようでもあります(私見)が、子供の学力不足を指摘される前は「勉強なんてできなくたっていいの、自分が本当にやりたいことを見つけるのが大切だから」という言葉をうのみにした子供は、未だに本当にやりたい仕事を見つけられないでいる可能性がある。
ゆとり教育の下で、より高い所得の家庭は塾に通わせ、十分な教育ができるが、所得の低い家庭の子供は十分な教育を受けられないなら、社会の格差はますます拡大し階層は固定して「階級化社会」になるということです。
喜怒哀楽でまたブログでも書いていますが、要するに今の日本は既に「世襲制社会」となり、社会のトップの人々は政治家・芸術家・医者・弁護士などスポーツ選手だってその多くの親は「お金持ち」となっています。
人間の能力が最大限発揮されるには全ての人に可能性がなければならないと考えますが、子供の教育は親の資力が大きく影響することはこれまでにも明らかな事ですが、これに加え、さらにゆとり教育を進めることによって、さらに社会が階級化してしまうということのようです。「公平な社会」なんてもともと存在しませんから、少なくとも「公正な社会」を目指しましょう。
5月2日の産経には「国語力10年前に比べ低下」また7月16日朝日には「世界一短い中2の宿題時間」としてそれぞれデータが掲載されていました。
「全国都道府県教育長協議会」の調査では、各都道府県で国語力向上のために取り組みをしている小中高校各5校ずつ抽出して調べたところ、10年前に比べ国語力が低下したと考えている学校が小学校で6割、中学校で7割、高校生で9割であり、その理由は読書量の低下、コミュニケーション手段の変化、国語の授業が減ったからと考えられ、具体的にどんな力が低下したかについては「語彙力」が突出し、次いで「自分の考えをまとめて書く」力を上げています。
次は国際教育到達度評価学会(本部・オランダ)が03年46カ国22万5千人の中学2年生を調べたところ、家で宿題をする時間は日本が世界一短く、たった1時間という事です。家の手伝いも36分で下から2番目、それでは何をしているかといえばダントツの世界一であるのが2時間42分テレビを見ているということです。
人間、基本的に生きてゆくために仕事(自然に働きかけて食料を獲得し、飢餓に備えて蓄え)をし、その様な中で頭を使い、人間の知能を発達させてきたと思います。様々な技術・文化も仕事をする中で進歩していると思います。この人間の知能・文化発展にも言葉が不可欠ですし、日本人であれば、当然日本語で考え、漢字の読み書きをします。
中学生の頃は、柔軟な思考ができ、大人では困難な丸暗記でもますが、この時期に宿題もせず、テレビ漬けでは思考能力が劣ってくる事は明らかです。これもあれも皆「ゆとり教育」という名の放し飼いの結果と思います。
今日8月7日は、京都大学の西村和雄教授が「ゆとり教育が生み出す階級化社会」と題して「正論」を論じていました。
大学生の親の収入の一番は東大といわれて久しい(前出132ページ)のですが、このことは要するに親が自分の子供にどれほどの教育を施せるか、その結果が子供の学歴に現れているということです。小さいときからしっかりとしたレールに乗せる事ができればその後は、すいすいと進学し、大学を卒業後は中央の公務員の仲間入り(昔で言えば武士社会)ができ、将来安泰という事です。
論旨は、「格差社会」という言葉が流行しているが、差を生み出す個々の問題の本質を曖昧にしてしまう危険がある、たとえば大量のフリーター、ニートは学力も技術も身につけず卒業した人々であり、しいて言えば「ゆとり教育」の犠牲者であると、断じています。
また、非常に面白いと感じたのは、教授の調査によると大学卒業生の所得差を比べると、共通一次前に入学した卒業後の平均年収は親の学力が影響していたが、その後は平均年収に影響していたのは科目選択であり、数学を選択した人は社会を選択した人よりも年100万円以上高かったそうです。
これから、「教育が所得格差を生む」と結論付けています。そんなこと分かりきっているようでもあります(私見)が、子供の学力不足を指摘される前は「勉強なんてできなくたっていいの、自分が本当にやりたいことを見つけるのが大切だから」という言葉をうのみにした子供は、未だに本当にやりたい仕事を見つけられないでいる可能性がある。
ゆとり教育の下で、より高い所得の家庭は塾に通わせ、十分な教育ができるが、所得の低い家庭の子供は十分な教育を受けられないなら、社会の格差はますます拡大し階層は固定して「階級化社会」になるということです。
喜怒哀楽でまたブログでも書いていますが、要するに今の日本は既に「世襲制社会」となり、社会のトップの人々は政治家・芸術家・医者・弁護士などスポーツ選手だってその多くの親は「お金持ち」となっています。
人間の能力が最大限発揮されるには全ての人に可能性がなければならないと考えますが、子供の教育は親の資力が大きく影響することはこれまでにも明らかな事ですが、これに加え、さらにゆとり教育を進めることによって、さらに社会が階級化してしまうということのようです。「公平な社会」なんてもともと存在しませんから、少なくとも「公正な社会」を目指しましょう。
2006年08月01日
中学生の居残り佐平次
最近、子供の事について触れていませんでしたが、5月6日、落語の居残り佐平次のような中学生が逮捕された事件がありました(7月13日産経)。
佐平次は、仲間を集め1円程度の割り勘で、遊郭にあがって飲んで踊って泊まって、その後の勘定は全て俺に任せろ、という話です。予め集めた金子(キンス)は田舎のお袋に送り届け、皆は一文無しで遊郭に上がりこみます。佐平次を除く仲間は仕事が早朝という理由で早々にトンずらします。
翌朝、店の番頭が御代をいただきに行きますと、「粋じゃないねー」などといいながら「表があれば裏があるんだ、今日あたり皆でまた繰り出してくる」などと調子の良いことを言いながら、また鰻を注文したりして、勘定の支払を引き伸ばすものの、引き伸ばしきれなくなり、とうとう「お足はないよ」と白状すると、番頭からそれではお客さんのお友達の家にご案内下さい。と最後通牒を言われて初めて「昨日会ったばかりの人だから家は知らない、名前も知らない、勘定も払えない」と居直り、布団部屋に引き下がる、という話です。
その後のやり取りも大変面白いですが、この話を知ってか知らずか、中学生(14〜16歳)12人がジャンケンして、負けた2人の少年が「今日は俺のおごりだ」といいながらで店に入り、仲間を先に返し、店に残った少年が隙を見て、店から逃走してしまうという事件です。これは立派な詐欺が成立し、無銭飲食で12人が逮捕されたということです。
少年たちはこれまでにも、所沢市内のうどん店、牛丼店、ファミレス、焼肉店などで犯行を繰り返したようです。そこまでやると、明らかにゲームは逸脱し立派な犯罪集団であり、世間様もそう甘く扱ってはいられません。
先日、数年前国選事件で担当した当時の大学生(窃盗で執行猶予2年)が執行猶予期間満了直前に信号無視で人身事故を起こしてしまった、どうしたら良いでしょうか、と相談に来ました。
彼等は3名で高校などに侵入してパソコン、楽器などを窃取して逮捕された事件で、当時大分私にお説教されました、といっていましたが、彼らは有名なW大学生と浪人2人で、現在では立派に更正して営業マンとして真面目に働いているようでした。
窃盗という前科に対し、不注意の業務上過失ですので、執行猶予の取り消しはないでしょうとアドバイスしました。
中学生と大学生では事件として扱われたとき、刑事処分は勿論、社会的制裁(退学など)も大分違うと思いますが、若かりし時の過ちとして更生の可能性がどう異なるのでしょうか、よく分かりませんが、中学生としては大分やりすぎですよね。
美味しいところは自分たちで頂き、辛いところ(代金支払)は親がするのではお仕置が足らないような気もします。
佐平次は、仲間を集め1円程度の割り勘で、遊郭にあがって飲んで踊って泊まって、その後の勘定は全て俺に任せろ、という話です。予め集めた金子(キンス)は田舎のお袋に送り届け、皆は一文無しで遊郭に上がりこみます。佐平次を除く仲間は仕事が早朝という理由で早々にトンずらします。
翌朝、店の番頭が御代をいただきに行きますと、「粋じゃないねー」などといいながら「表があれば裏があるんだ、今日あたり皆でまた繰り出してくる」などと調子の良いことを言いながら、また鰻を注文したりして、勘定の支払を引き伸ばすものの、引き伸ばしきれなくなり、とうとう「お足はないよ」と白状すると、番頭からそれではお客さんのお友達の家にご案内下さい。と最後通牒を言われて初めて「昨日会ったばかりの人だから家は知らない、名前も知らない、勘定も払えない」と居直り、布団部屋に引き下がる、という話です。
その後のやり取りも大変面白いですが、この話を知ってか知らずか、中学生(14〜16歳)12人がジャンケンして、負けた2人の少年が「今日は俺のおごりだ」といいながらで店に入り、仲間を先に返し、店に残った少年が隙を見て、店から逃走してしまうという事件です。これは立派な詐欺が成立し、無銭飲食で12人が逮捕されたということです。
少年たちはこれまでにも、所沢市内のうどん店、牛丼店、ファミレス、焼肉店などで犯行を繰り返したようです。そこまでやると、明らかにゲームは逸脱し立派な犯罪集団であり、世間様もそう甘く扱ってはいられません。
先日、数年前国選事件で担当した当時の大学生(窃盗で執行猶予2年)が執行猶予期間満了直前に信号無視で人身事故を起こしてしまった、どうしたら良いでしょうか、と相談に来ました。
彼等は3名で高校などに侵入してパソコン、楽器などを窃取して逮捕された事件で、当時大分私にお説教されました、といっていましたが、彼らは有名なW大学生と浪人2人で、現在では立派に更正して営業マンとして真面目に働いているようでした。
窃盗という前科に対し、不注意の業務上過失ですので、執行猶予の取り消しはないでしょうとアドバイスしました。
中学生と大学生では事件として扱われたとき、刑事処分は勿論、社会的制裁(退学など)も大分違うと思いますが、若かりし時の過ちとして更生の可能性がどう異なるのでしょうか、よく分かりませんが、中学生としては大分やりすぎですよね。
美味しいところは自分たちで頂き、辛いところ(代金支払)は親がするのではお仕置が足らないような気もします。
2006年03月08日
地域子供社会と民主主義
平成18年第一回個別質問要旨で話そうとして余り上手くいかなかった原稿です。タイトルをつけるなら「地域子供社会と民主主義」などとなるでしょうかね。
この質問は、わが国の政治的無関心は年々増加傾向にあると考えられますが、これを少しでも良くするには、子供のときからの教育が必要と考え、その根本のところから論じて一定の方向性を質問したいとおもったのですが、「市政に関する一般質問」としては。上手く行かなかったようです。
とは言うものの、自分の認識なり意見を前提として物事の考え方を述べ、これに対する答弁を伺うという「政治的問答」ですからこれでも良いのではないかとも思います。
市政に対して、議員が議会で質問して、それが具体的成果として現れるということは素晴らしい事でしょうが、「行政マンのプロ」として長年行政に携わり、具体的に政策を立案し執行している執行部に対し、非常勤の議員質問でこれが具体化することは大変なことと思います。
幸い、「質問の成果」として今年度の予算でAEDの設置が新たに7箇所に設置される事になりました。これなどタイミングと予算もそれ程必要でなかったことなどから「上首尾」と言えるでしょうが、そうでなければ議員の仕事の大部分は執行部に対するチェック機能と考えます。
その外、日常的に実施計画の実現を執行部に働きかけ、特に地元に対する各種事業の執行が後回しにならないよう議会外で色々の活動する事も大切なので、その意味で情報収集が重要です。
また、佐久間市長が常々言っている「元気な市原」のため職員の意識改革も忘れられない大切な事です。職員は、報酬だけが目的でなく「自分にしかできない、自分だから早くできた、市民に喜ばれる仕事ができた」とのやり甲斐、心意気がなくては仕事ができませんから、議員がその辺にも側面から応援できればと考え、今日の様な「講義のような質問」でも良いのではないかと考えましたが、やっぱ多少「抗議」がでていました。
色々試すのも面白いですから、次の機会には「事実と質問」で味気ない質問を考えて見ます。それではお待たせいたしました。
冒頭は、NHK放送文化研究所の「現代日本人の意識構造」から日本人の政治的無関心のデータを上げ、大人が無関心であるのに子供が政治に関心を持つなどということは期待できませんから、子供には教育現場と最近はなくなってしまったであろう、地域子供社会こそ民主主義の学校として大切であるという、趣旨で長々前提を論じました。原稿も大分はしょったのですが、それでも長かったですね。
論旨は、聖徳太子の17条憲法で書かれていることが、今の日本人の「和の精神」として千年以上続いているのではないか、そのなかに西欧の市民社会の自由と正義、民主主義がどのように関係しているか、なかなかまとめ切れないところでした。
民主主義教育をどうするのかなどと言うと、わが国では子供のときから十分教育をしている、中には「広ク会議ヲ輿シ 万機公論ニ決ベシ」と教えられている。
またもっと古く聖徳太子の17条憲法では「一に曰く、和をもって貴しとなし、さかうることなきを宗とせよ」と言われているようです。以下はその要旨です。
@ 和を尊び、人にさからい そむくことがないようにせよ。
A 仏教をおおいに尊重せよ。
B 天皇のお言葉には、必ずつつしんで従いなさい。
C 役人は人の守るべき道をすべての根本とせよ。
D 私利私欲をすて、公平な裁判をせよ。
E 悪をこらしめ、善をすすめよ。
F 人は各自の任務を果たしなさい。
G 役人は朝早く仕事に出て、遅く帰りなさい。
H すべてのことにウソいつわりのない真心を根本とせよ。
I 考え方のちがいで人を怒ってはいけない。
J 功績があれば賞を、罪をおかしたら罰を、正しくあたえよ。
K 地方官は人民から税をむさぼり取ってはいけない。
L 役人は各自の職務の内容をよく心得なさい。
M 役人は他人をうらやみねたんではならない。
N 私心をすてて公の立場に立つのが、君主に仕える者のつとめだ。
O 人民を使って物事をさせるのは、いそがしくないときを選べ。
P 大切なことはみんなとよく議論してきめなさい。
要するに、人々が和の精神をもち、公のために奉仕する役人の心がまえと国家の理想が示されたのが、604年、今から1400年前のことです。すべてを是とするものでもありませんが、現代に通ずるところがあると考えるのが、私を含め大方の日本人でしょう。
明治以後、わが国は西洋文明とその法制度を取り入れ、市民社会の仲間入りをしました。
(以下質問では省略)の状況ですが、明治政府は西欧列強と結んだ不平等条約の改正に苦労し、明治22年自前の憲法(といってもプロイセン憲法を参考にしている)を制定し、この日本の努力を認めた最大の強国イギリスが条約改正交渉に応じ(背景に極東に進出してきたロシアのけん制)、陸奥宗光外務大臣の努力で日英通商航海条約が調印されました。
直後、日清戦争が始まり日本が勝利するとアメリカを始め各国も治外法権の撤廃に応じました。
さらに日露戦争に勝利した明治44年(1911年)アメリカと関税自主権回復の交渉に成功し、条約改正の悲願が達成されました。このとき既に岩倉使節団の交渉から40年が経過していました。
岩倉使節団は明治4年、各条約締結国を訪問して、あわせて条約改正の予備交渉を行ったのですが、アメリカと条約改正の予備交渉では、刑法(罪刑法定主義、裁判制度)などが整備されておらず、相手にされなかったそうです。当時日本の裁判でも「この桜吹雪が・・」とはやっていなかったでしょうが、日本の裁判には服せないと言っていたわけです。
その後、明治19年にはノルマントン事件(イギリスの汽船が台風で沈没し、船長以下26人のイギリス人は救出されたが、日本人乗客25名は全員見殺しにされた)もありました。
そういうわけで、明治政府は「法治国家」の体裁を整えるため、江藤新平はそれまで地方の司法権を握っていた大蔵省から司法権を奪取して、司法省による上からの府県裁判所の設置を進め、裁判官は帝国大学出身の卒業生を判事にして、ドイツの裁判例を倣い裁判をしてきました。)ここまで、略しました。
1776年イギリスの植民地であったアメリカは独立宣言を発表して三権分立を柱とする合衆国憲法を制定し、フランスでは1789年、身分の特権を廃し、自由平等をうたう人権宣言が発表され、人々が平等な市民として活動する社会を目指したので、これは市民革命と呼ばれています。
1889年は明治22年であり、1989年はベルリンの壁がなくなった年です。
フランス革命から100年で明治憲法が制定され、さらに100年経過してベルリンの壁がなくなったのです。
要するにわが国が採用した西欧の市民革命からの近代化と民主主義はその根本に自由平等と言う市民的自由を共有する個人、自立した個人が想定されているわけです。
民主主義国家とは自律した個人が国家の主権者であり、この個人が他人の権利を侵害しなければすべて自由に出来る、法律で禁止されていなければなんでもできる社会これが建前としての民主主義社会なのです。
そして市民的社会が自由競争の結果、不平等が生ずれば自由を規制して弱者を救済する社会国家、生活保護法を典型とする社会国家となるわけです。
明治22年わが国が自前の憲法を制定した当時、既に社会権が観念されていましたが、まだまだ自由社会と考えてもいいわけです。
(以下略、自由社会では過失責任主義、例えば足尾銅山などで鉱毒を垂れ流しても、被害者が自らの権利が侵害され、侵害した者が銅山だとその因果関係を証明できなければ救済されない、これが自由競争の結論でした。
同時に自己責任ということも言われますが、これは要するに連帯責任を否定するものです。)
いずれにしましても、国家は最小限、治安の維持をはかる小さな政府であったわけです。その国家のなかで国民は他人の権利を侵害しなければ自由である、どんなピアスをしようと、刺青をしようと男が女装して歩いても関係ない、これが市民的自由の出発点です。
自分の評価を前提基準とすることなく、他人の馬鹿な行為を許す、これが自由社会です。
しかし、このような市民社会の大前提である「個人の自由」ですが、未だ十分にわが国では受け入れらていないのが現実だと思います。
すなわちわが国は、市民社会を経験しないまま社会国家の時代に突入していますから、未だに民主主義を論ずるとき「和を以て貴しとする」のが現実です。
昨日、国の緊急事態法にもとづいて国民保護協議会条例の制定が可決されましたが、この議場に心底この条例が必要だと考えている人がいるのかと率直な疑問を呈しますと、市長さんどうですか、本当に必要ですか、これは通告にない質問ですから答弁は不要ですが、私も本音はこんな条例はいらない、ほんとにミサイルが飛んできてから避難しても間に合わないと思うですが、そこが和を以て貴しとする日本人なんです。
これを否定し、そうではない市民社会の民主主義を貫くのだと言ってがんばると戦前では非国民、アカ等と言われてしまうのです。今でも一部にはそのような言い方をする人もいます。
しかし、このような考え方、和を以って貴しとする考え方は、現在ではあくまでわが国の内部でしか許されないとおもいます。先ほど他人の馬鹿な行為を認められるか、といいましたが、イラクにボランティアで行ってイラク人の手助けをしていた人が人質となったとき、小泉首相をはじめ大多数の日本人が「危ないところに好きで言ったのだから、自己責任だ、使った国の税金を弁償させろ」と言っていました。同じように危険を承知でイラクに行って殺害された外交官は英雄となりました。公務員として殺されたから英雄であり、ボランティアで人質になれば、非国民とまでは言いませんが「自己責任だ」と非難されています。
このとき、緒方貞子さんは、国際協力機構(JICA)理事長就任のため13年ぶりに日本に帰って人々の思考が内向きになっていることに驚いた。50年前に米国で議論されている古い国益論が、まことしやかに論じられているのは驚きとしか言いようがない。
イラク人質問題について、私も責任者として本当に危険な地域に人を出すことはできない。しかし、多様な人々が存在して、はじめてよい社会になる。危険地域に行かない人もいて当然だし、行く人もいてよい、どんな状況下でも国は救出義務がある。人質になった人を村八分のように扱って非難した日本人の反応は、国際社会の評価をかなり落としたと思う。
と語ったそうです。(司馬遼太郎も明治維新が成功したのは全国諸藩から集まった人々の多様性といっていましたが、同じことしか話さないなら50人いても100人いても同じであり、1人いれば足りてしまいます。)
では、今の日本の民主主義の現状はどうなっているのでしょうか。真の民主主義を確立するには、全体社会(全体国家)と部分社会が存在し、国民すべてはこの部分社会の中で育ち、規範を学び、自律し、他人の意見を尊重するという民主主義のルールを身につける必要があると考えます。
(もっと手短に言う)人はこの世に生れ落ちて、言葉を学び、人とコミュニケーションをとるようになります。ここは長くなりますので、少し前のホームページをご参照ください。要するに、ネアンデルタール人が滅びホモサピエンスが生き残ったのはホモサピエンスが言葉を話すことができたからです。ここは喜怒哀楽210ページ以下をご参照ください。本の宣伝ではありませんから、ない人は僕に借りてください。
以下長くなりますが、宮崎学の「法と掟」108pからの引用です。
「この世に生まれてきて、最初に接する社会は家族と言う基礎社会である。続いて、地域社会あるいはその系としての地域子供社会という基礎社会である。これらの基礎社会では、人々は全人格的に結びついているし、また生活の一面だけではなくいろいろな面で結びついているから、生活全般にわたる具体的な場面における人格のふれあいを通じて、規範を学んでいくことになる。
われわれが子供のころは、日本中どこでも家族社会、地域社会、地域子供社会といった個別社会がしっかりあって、そこでオトッツァンもオッカサンもオバサンも、ニイチャンもネエチャンもそれぞれが役割と存在感をもって、それぞれの個別社会を支えていた。・・だれもが、そのような身の回りの個別社会の中で、はじめて社会と言うものを体験し、具体的な生活の場面で社会規範というものを身につけていったのである。
子供は、続いて、学校をはじめとしてさまざまな派生社会あるいは機能的社会に接して、そこでさらに自分の価値体系をつくっていく。・・
このように、基礎社会、派生社会に属して行動する中で、ほかの人たちとお互いに影響しあうことを通じて、その社会に適した行動パターンを身に付けていくことを、社会学では「社会化」という。この社会化の課程が、人間形成の過程であり、・・社会規範を内面化していく過程なのである。・・だから、青少年の規範逸脱行動がふえたからといって、彼らに外からのお説教でしかない道徳や倫理の教育を強化するというのは愚の骨頂であって、問われているのは大人自身が自分たちで作っている個別社会を見直すことである。」
と言っています。今の子供たちに自己を確立させ、民主主義の教育をしていくことは出発点に家族があり、地域子供社会が重要と考えるのですが、学校教育の現場で地域社会の中でどのような指導が必要とお考えですか。(地域子供社会の重要性を沢山の言葉を使い、言葉の無駄遣いでしたかね、強調したかったわけです。)
当然その前提として正しい日本語、意味を持つ漢字の重要性、特におとなり韓国では漢字教育をおろそかにしてハングルを重視した結果、今になって漢字教育を重視しているようですが、記憶力のすばらしい子供の時に沢山の難しい漢字を覚えさせるが重要と考えます。障害者の害をひらがなで書くと言った実にくだらない、全く形式的なことを大事にするのではなく、本物の優しさ具体的事実の伴ういたわりこそ必要でしょう。法律で親孝行せよ、と決めたら国民が親孝行になると考えることは本末転倒でしょう。
マスコミでも時々「ふさわしくない言葉」などと自己規制していますが、言葉は良い意味も悪い意味もあって初めて真実が伝えられます。
私など既に古文が読めませんが、古い日本語を読めないと言うことは日本人の伝統が伝承されないと言うことです。文化が断絶していると言うことです。古文漢文をもっと大事にすべきでしょうと今更ながら反省しています。落語も、とても放送では使えない、とんでもない言葉遣いをしていますが、大切なわが国の文化ですから、そのまま放送すべきと考えます。
学校現場を預かる立場として、日本語教育をどのようにすべきとお考えでしょうか。
これに対し、山中教育長は子供の正義から論じてくださいました。団塊の世代は赤胴鈴の助、少年ジェット、など最後は正義が勝利するテレビ・漫画などで育っているのですが、いまの子供たちにも「正義」を大切にするよう学校現場で指導している、と言う趣旨の話をされました。
この質問は、わが国の政治的無関心は年々増加傾向にあると考えられますが、これを少しでも良くするには、子供のときからの教育が必要と考え、その根本のところから論じて一定の方向性を質問したいとおもったのですが、「市政に関する一般質問」としては。上手く行かなかったようです。
とは言うものの、自分の認識なり意見を前提として物事の考え方を述べ、これに対する答弁を伺うという「政治的問答」ですからこれでも良いのではないかとも思います。
市政に対して、議員が議会で質問して、それが具体的成果として現れるということは素晴らしい事でしょうが、「行政マンのプロ」として長年行政に携わり、具体的に政策を立案し執行している執行部に対し、非常勤の議員質問でこれが具体化することは大変なことと思います。
幸い、「質問の成果」として今年度の予算でAEDの設置が新たに7箇所に設置される事になりました。これなどタイミングと予算もそれ程必要でなかったことなどから「上首尾」と言えるでしょうが、そうでなければ議員の仕事の大部分は執行部に対するチェック機能と考えます。
その外、日常的に実施計画の実現を執行部に働きかけ、特に地元に対する各種事業の執行が後回しにならないよう議会外で色々の活動する事も大切なので、その意味で情報収集が重要です。
また、佐久間市長が常々言っている「元気な市原」のため職員の意識改革も忘れられない大切な事です。職員は、報酬だけが目的でなく「自分にしかできない、自分だから早くできた、市民に喜ばれる仕事ができた」とのやり甲斐、心意気がなくては仕事ができませんから、議員がその辺にも側面から応援できればと考え、今日の様な「講義のような質問」でも良いのではないかと考えましたが、やっぱ多少「抗議」がでていました。
色々試すのも面白いですから、次の機会には「事実と質問」で味気ない質問を考えて見ます。それではお待たせいたしました。
冒頭は、NHK放送文化研究所の「現代日本人の意識構造」から日本人の政治的無関心のデータを上げ、大人が無関心であるのに子供が政治に関心を持つなどということは期待できませんから、子供には教育現場と最近はなくなってしまったであろう、地域子供社会こそ民主主義の学校として大切であるという、趣旨で長々前提を論じました。原稿も大分はしょったのですが、それでも長かったですね。
論旨は、聖徳太子の17条憲法で書かれていることが、今の日本人の「和の精神」として千年以上続いているのではないか、そのなかに西欧の市民社会の自由と正義、民主主義がどのように関係しているか、なかなかまとめ切れないところでした。
民主主義教育をどうするのかなどと言うと、わが国では子供のときから十分教育をしている、中には「広ク会議ヲ輿シ 万機公論ニ決ベシ」と教えられている。
またもっと古く聖徳太子の17条憲法では「一に曰く、和をもって貴しとなし、さかうることなきを宗とせよ」と言われているようです。以下はその要旨です。
@ 和を尊び、人にさからい そむくことがないようにせよ。
A 仏教をおおいに尊重せよ。
B 天皇のお言葉には、必ずつつしんで従いなさい。
C 役人は人の守るべき道をすべての根本とせよ。
D 私利私欲をすて、公平な裁判をせよ。
E 悪をこらしめ、善をすすめよ。
F 人は各自の任務を果たしなさい。
G 役人は朝早く仕事に出て、遅く帰りなさい。
H すべてのことにウソいつわりのない真心を根本とせよ。
I 考え方のちがいで人を怒ってはいけない。
J 功績があれば賞を、罪をおかしたら罰を、正しくあたえよ。
K 地方官は人民から税をむさぼり取ってはいけない。
L 役人は各自の職務の内容をよく心得なさい。
M 役人は他人をうらやみねたんではならない。
N 私心をすてて公の立場に立つのが、君主に仕える者のつとめだ。
O 人民を使って物事をさせるのは、いそがしくないときを選べ。
P 大切なことはみんなとよく議論してきめなさい。
要するに、人々が和の精神をもち、公のために奉仕する役人の心がまえと国家の理想が示されたのが、604年、今から1400年前のことです。すべてを是とするものでもありませんが、現代に通ずるところがあると考えるのが、私を含め大方の日本人でしょう。
明治以後、わが国は西洋文明とその法制度を取り入れ、市民社会の仲間入りをしました。
(以下質問では省略)の状況ですが、明治政府は西欧列強と結んだ不平等条約の改正に苦労し、明治22年自前の憲法(といってもプロイセン憲法を参考にしている)を制定し、この日本の努力を認めた最大の強国イギリスが条約改正交渉に応じ(背景に極東に進出してきたロシアのけん制)、陸奥宗光外務大臣の努力で日英通商航海条約が調印されました。
直後、日清戦争が始まり日本が勝利するとアメリカを始め各国も治外法権の撤廃に応じました。
さらに日露戦争に勝利した明治44年(1911年)アメリカと関税自主権回復の交渉に成功し、条約改正の悲願が達成されました。このとき既に岩倉使節団の交渉から40年が経過していました。
岩倉使節団は明治4年、各条約締結国を訪問して、あわせて条約改正の予備交渉を行ったのですが、アメリカと条約改正の予備交渉では、刑法(罪刑法定主義、裁判制度)などが整備されておらず、相手にされなかったそうです。当時日本の裁判でも「この桜吹雪が・・」とはやっていなかったでしょうが、日本の裁判には服せないと言っていたわけです。
その後、明治19年にはノルマントン事件(イギリスの汽船が台風で沈没し、船長以下26人のイギリス人は救出されたが、日本人乗客25名は全員見殺しにされた)もありました。
そういうわけで、明治政府は「法治国家」の体裁を整えるため、江藤新平はそれまで地方の司法権を握っていた大蔵省から司法権を奪取して、司法省による上からの府県裁判所の設置を進め、裁判官は帝国大学出身の卒業生を判事にして、ドイツの裁判例を倣い裁判をしてきました。)ここまで、略しました。
1776年イギリスの植民地であったアメリカは独立宣言を発表して三権分立を柱とする合衆国憲法を制定し、フランスでは1789年、身分の特権を廃し、自由平等をうたう人権宣言が発表され、人々が平等な市民として活動する社会を目指したので、これは市民革命と呼ばれています。
1889年は明治22年であり、1989年はベルリンの壁がなくなった年です。
フランス革命から100年で明治憲法が制定され、さらに100年経過してベルリンの壁がなくなったのです。
要するにわが国が採用した西欧の市民革命からの近代化と民主主義はその根本に自由平等と言う市民的自由を共有する個人、自立した個人が想定されているわけです。
民主主義国家とは自律した個人が国家の主権者であり、この個人が他人の権利を侵害しなければすべて自由に出来る、法律で禁止されていなければなんでもできる社会これが建前としての民主主義社会なのです。
そして市民的社会が自由競争の結果、不平等が生ずれば自由を規制して弱者を救済する社会国家、生活保護法を典型とする社会国家となるわけです。
明治22年わが国が自前の憲法を制定した当時、既に社会権が観念されていましたが、まだまだ自由社会と考えてもいいわけです。
(以下略、自由社会では過失責任主義、例えば足尾銅山などで鉱毒を垂れ流しても、被害者が自らの権利が侵害され、侵害した者が銅山だとその因果関係を証明できなければ救済されない、これが自由競争の結論でした。
同時に自己責任ということも言われますが、これは要するに連帯責任を否定するものです。)
いずれにしましても、国家は最小限、治安の維持をはかる小さな政府であったわけです。その国家のなかで国民は他人の権利を侵害しなければ自由である、どんなピアスをしようと、刺青をしようと男が女装して歩いても関係ない、これが市民的自由の出発点です。
自分の評価を前提基準とすることなく、他人の馬鹿な行為を許す、これが自由社会です。
しかし、このような市民社会の大前提である「個人の自由」ですが、未だ十分にわが国では受け入れらていないのが現実だと思います。
すなわちわが国は、市民社会を経験しないまま社会国家の時代に突入していますから、未だに民主主義を論ずるとき「和を以て貴しとする」のが現実です。
昨日、国の緊急事態法にもとづいて国民保護協議会条例の制定が可決されましたが、この議場に心底この条例が必要だと考えている人がいるのかと率直な疑問を呈しますと、市長さんどうですか、本当に必要ですか、これは通告にない質問ですから答弁は不要ですが、私も本音はこんな条例はいらない、ほんとにミサイルが飛んできてから避難しても間に合わないと思うですが、そこが和を以て貴しとする日本人なんです。
これを否定し、そうではない市民社会の民主主義を貫くのだと言ってがんばると戦前では非国民、アカ等と言われてしまうのです。今でも一部にはそのような言い方をする人もいます。
しかし、このような考え方、和を以って貴しとする考え方は、現在ではあくまでわが国の内部でしか許されないとおもいます。先ほど他人の馬鹿な行為を認められるか、といいましたが、イラクにボランティアで行ってイラク人の手助けをしていた人が人質となったとき、小泉首相をはじめ大多数の日本人が「危ないところに好きで言ったのだから、自己責任だ、使った国の税金を弁償させろ」と言っていました。同じように危険を承知でイラクに行って殺害された外交官は英雄となりました。公務員として殺されたから英雄であり、ボランティアで人質になれば、非国民とまでは言いませんが「自己責任だ」と非難されています。
このとき、緒方貞子さんは、国際協力機構(JICA)理事長就任のため13年ぶりに日本に帰って人々の思考が内向きになっていることに驚いた。50年前に米国で議論されている古い国益論が、まことしやかに論じられているのは驚きとしか言いようがない。
イラク人質問題について、私も責任者として本当に危険な地域に人を出すことはできない。しかし、多様な人々が存在して、はじめてよい社会になる。危険地域に行かない人もいて当然だし、行く人もいてよい、どんな状況下でも国は救出義務がある。人質になった人を村八分のように扱って非難した日本人の反応は、国際社会の評価をかなり落としたと思う。
と語ったそうです。(司馬遼太郎も明治維新が成功したのは全国諸藩から集まった人々の多様性といっていましたが、同じことしか話さないなら50人いても100人いても同じであり、1人いれば足りてしまいます。)
では、今の日本の民主主義の現状はどうなっているのでしょうか。真の民主主義を確立するには、全体社会(全体国家)と部分社会が存在し、国民すべてはこの部分社会の中で育ち、規範を学び、自律し、他人の意見を尊重するという民主主義のルールを身につける必要があると考えます。
(もっと手短に言う)人はこの世に生れ落ちて、言葉を学び、人とコミュニケーションをとるようになります。ここは長くなりますので、少し前のホームページをご参照ください。要するに、ネアンデルタール人が滅びホモサピエンスが生き残ったのはホモサピエンスが言葉を話すことができたからです。ここは喜怒哀楽210ページ以下をご参照ください。本の宣伝ではありませんから、ない人は僕に借りてください。
以下長くなりますが、宮崎学の「法と掟」108pからの引用です。
「この世に生まれてきて、最初に接する社会は家族と言う基礎社会である。続いて、地域社会あるいはその系としての地域子供社会という基礎社会である。これらの基礎社会では、人々は全人格的に結びついているし、また生活の一面だけではなくいろいろな面で結びついているから、生活全般にわたる具体的な場面における人格のふれあいを通じて、規範を学んでいくことになる。
われわれが子供のころは、日本中どこでも家族社会、地域社会、地域子供社会といった個別社会がしっかりあって、そこでオトッツァンもオッカサンもオバサンも、ニイチャンもネエチャンもそれぞれが役割と存在感をもって、それぞれの個別社会を支えていた。・・だれもが、そのような身の回りの個別社会の中で、はじめて社会と言うものを体験し、具体的な生活の場面で社会規範というものを身につけていったのである。
子供は、続いて、学校をはじめとしてさまざまな派生社会あるいは機能的社会に接して、そこでさらに自分の価値体系をつくっていく。・・
このように、基礎社会、派生社会に属して行動する中で、ほかの人たちとお互いに影響しあうことを通じて、その社会に適した行動パターンを身に付けていくことを、社会学では「社会化」という。この社会化の課程が、人間形成の過程であり、・・社会規範を内面化していく過程なのである。・・だから、青少年の規範逸脱行動がふえたからといって、彼らに外からのお説教でしかない道徳や倫理の教育を強化するというのは愚の骨頂であって、問われているのは大人自身が自分たちで作っている個別社会を見直すことである。」
と言っています。今の子供たちに自己を確立させ、民主主義の教育をしていくことは出発点に家族があり、地域子供社会が重要と考えるのですが、学校教育の現場で地域社会の中でどのような指導が必要とお考えですか。(地域子供社会の重要性を沢山の言葉を使い、言葉の無駄遣いでしたかね、強調したかったわけです。)
当然その前提として正しい日本語、意味を持つ漢字の重要性、特におとなり韓国では漢字教育をおろそかにしてハングルを重視した結果、今になって漢字教育を重視しているようですが、記憶力のすばらしい子供の時に沢山の難しい漢字を覚えさせるが重要と考えます。障害者の害をひらがなで書くと言った実にくだらない、全く形式的なことを大事にするのではなく、本物の優しさ具体的事実の伴ういたわりこそ必要でしょう。法律で親孝行せよ、と決めたら国民が親孝行になると考えることは本末転倒でしょう。
マスコミでも時々「ふさわしくない言葉」などと自己規制していますが、言葉は良い意味も悪い意味もあって初めて真実が伝えられます。
私など既に古文が読めませんが、古い日本語を読めないと言うことは日本人の伝統が伝承されないと言うことです。文化が断絶していると言うことです。古文漢文をもっと大事にすべきでしょうと今更ながら反省しています。落語も、とても放送では使えない、とんでもない言葉遣いをしていますが、大切なわが国の文化ですから、そのまま放送すべきと考えます。
学校現場を預かる立場として、日本語教育をどのようにすべきとお考えでしょうか。
これに対し、山中教育長は子供の正義から論じてくださいました。団塊の世代は赤胴鈴の助、少年ジェット、など最後は正義が勝利するテレビ・漫画などで育っているのですが、いまの子供たちにも「正義」を大切にするよう学校現場で指導している、と言う趣旨の話をされました。
2005年11月26日
人間的コミュニケーションの発達
我が家には、間もなく1歳になるオスのシェットランドがいます。以前書きましたが、先代のシェットランド「リリー」は藪医者の不手際もあり、死に目に会えませんでした。落胆した妻は何度もジョイフルホンダのペットセンターで子犬のシェッテをみて「リリー」の悲しさを紛らわしていたのですが、中々飼主(買主)が見つからないらしく、行くたびに大きくなる売れ残りのシェッテにとうとう同情してしまい、我が家の「ペット」になりました。
大きくなったといってもわずか4ヶ月のシェットランドですから、外に出すわけにもいかず、ゲージに入れて家の中で飼い始めました。今の時代「進歩」していますから犬のオシッコも吸水性のマットを使えばたいした臭いもしませんし、ウンコもシェパード、ゴールデンなどと比べればどうということありませんから、春先まで家の中で飼っていました。
「待て!」、「ハウス!」、「吠えろ!」なども簡単に覚え、オシッコ・ウンコも外に出すときにきちんとするようになりました。我が家では30年以上シェパードゴールデンなど大型犬を飼っており、犬は家の外で飼うことが当たり前ですから、彼も当然、春先に部屋から玄関に移動して、その後外にゲージを置こうと考え、先ず玄関に出したのです。
ところが、それまでに色々人間の言葉も覚え、「お手、お代わり」「ゴロン」などが出来るようになっていますから、可愛らしい少年犬になっています。この彼が玄関で一晩中「クンクン」泣くものですから、私が家に帰るとゲージがとうとう玄関からもとの場所に戻っているのです。
彼は、これまで家族同様の生活をする中で、どうすれば自分の要求が通るのか十分学習をしていたのです。私のいない間に妻の同情をかい、ゲージの位置を元に戻させてしまったのです。最近は車の音を覚え、私が帰る「出せだせ」と吠えますので仕方なく、ゲージから出してジャレさせて遊んでいます。
また、彼が部屋の中で遊んでいるときでも私が「アレッ!」と言うと吹っ飛んでゲージに入り、入り口が開いていても中で待っています。煮干のアタマが食べたいからです。賢いシェットランドは人間と十分コミュニケーションが取れているのです。
我が家には、他にも黒のラブラドールの雑種らしいのもいます。雑種らしいとは、このバーディー(最初の銘々は「ボギー」だった)は幼犬から虐待にされていたらしく、愛護団体から飼い主の募集があったことから、大体生後1年位で我が家の愛犬グループの一員となりました。
彼女は、やっぱりダブルボギーの様で、それまでの虐待で人間不信といいますか、人間とのコミュニケーションがうまく取れないのです。食事の際の「待て!」「良し!」も十分に覚えず、「ハウス」もよく理解できていません。偶に「吠えろ!」が出来ることもありますが、数日僕が餌を与えないと直ぐ忘れてしまうのです。この点リリーは先にいたシェパードの「ラッキー」が「吠えろ」「ゴロン」をしているのを見て、特に教えなかったのですが、自分からデングリ返るように「ゴロン」が出来ました。
リリーは、訳あって10ヶ月位で我が家に引き取られ、最初は「ハム」しか食べないと言われていたのですが、我が家では犬用の「ハム」がありませんから、3日ほど腹をすかした後、喜んでドッグフードを食べ始めました。亡くなるまでドッグフードが好きなとても利口な犬でした。リリーとの対決でハムとドッグフードの交渉には僕が勝ったのです。
以前確か、「ハーバード流交渉術」と言うような題名の本を読んだことがあります。要するに人間朝起きたときから寝るまで自分以外の人との「交渉」が大事であると言うような本でした。
「おはよう」といって目が覚めたとたん、娘は「お父さん、私の洋服古くなった」とか、「お父さん、今日は私の誕生日よ」などと交渉が必要になってきます。「今日はゴルフ」などといえば、怖い顔をした妻が「先週もゴルフでしたわね!」などなど、人間すべてが交渉の連続です。
弁護士の仕事もほとんどすべてが交渉の連続です。どうすれば自分の時間が節約でき、多い収入を得られるか、自分の興味のある仕事が出来るのか、この前飲屋で自分の隣に座っていた彼女と長話を続け、已む無く一人でロックを飲み干さざるを得なくなったあいつに仕返しが出来るのか、などなどです。
裁判だって全部勝てばいいわけではないし、うまく負けなければならない場合もあるし、ヤミ金におべんちゃらを言う時だってあるのです。借金の減額交渉をする相手であるサラ金業者に「大きなお世話ですが、減額されたこのまとまったお金を他に高金利で貸したほうが、ここで3万円を取るため頑張るより、早く儲けられるのではないか」、また場合によっては交渉相手が上司に説明するための理由付けを教えてあげて、こちらの有利に事を運ぶこともあります。この様にすべて交渉、相手とのコミュニケーションの連続なのです。
最近面白い本「自閉症の意識構造」(無量真見著、現代書館)を頂きました。帯には『自閉症は脳の器質的疾患によるものではない!』『テレビ・ビデオ漬け、デジタル的子育てが子供の意識構造を変えている』と激しい口調で書いてありますから、多分今の医学会では異端児でしょう。
しかし、この本では、71ページの「自閉症の発症原因に対する一考察」から、人間の子供が産まれた直後からのコミュニケーションの発達について考察をしています。
その中で、赤ん坊が生きることに必要な無意識の行動から徐々に人間的コミュニケーション獲得して行く道筋を考察しているところは、実証的検証ではありませんが、読む人をして十分納得させる内容となっています。そのほか空間、概念の認識など人間の根源的「知識獲得」にも考察を加えています。
我が家の犬だって、自分が生きるために飼い主とのコミュニケーションをとり、餌をもらうのです。ましてや人間ですから、普通に育てれば赤ん坊は、他者との関係を理解して自ら生きる術を獲得できると思います。
狼少年の例を引くまでもなく、人間の子供は人間に育てられなければ「人間になれない」のです。例えば、生まれたての赤ん坊の口にチューブで必要な栄養を与え、排泄物も快適に処理して人間が一切関わらないとしたら・・恐ろしいことですが、絶対「人間」にはなれないでしょう。人間は五感を働かせながら動物から人間的成長を遂げると思います。
以前、北海道で俳優を育てている脚本家倉本聡が若い俳優志望者に目を瞑らせ裸足で歩かせ、最初に人間の五感の働きを意識させると言うような新聞記事を見たことがあります。先ず、人間研ぎ澄まされた五感こそが生きるに必要なことではないでしょうか。
母親のぬくもり、母乳、不快を伴う昔ながらのオシメ、熱い、寒い、ザリザリ、がさがさ、甘い酸っぱい、臭い、などなど具体的感覚から人間的成長が始まるのではないか、そんなことを考えさせられました。知ってますか?最近赤ん坊はウンコの仕方までビデオで覚えるそうですよ。二次元の画面で・・・
大きくなったといってもわずか4ヶ月のシェットランドですから、外に出すわけにもいかず、ゲージに入れて家の中で飼い始めました。今の時代「進歩」していますから犬のオシッコも吸水性のマットを使えばたいした臭いもしませんし、ウンコもシェパード、ゴールデンなどと比べればどうということありませんから、春先まで家の中で飼っていました。
「待て!」、「ハウス!」、「吠えろ!」なども簡単に覚え、オシッコ・ウンコも外に出すときにきちんとするようになりました。我が家では30年以上シェパードゴールデンなど大型犬を飼っており、犬は家の外で飼うことが当たり前ですから、彼も当然、春先に部屋から玄関に移動して、その後外にゲージを置こうと考え、先ず玄関に出したのです。
ところが、それまでに色々人間の言葉も覚え、「お手、お代わり」「ゴロン」などが出来るようになっていますから、可愛らしい少年犬になっています。この彼が玄関で一晩中「クンクン」泣くものですから、私が家に帰るとゲージがとうとう玄関からもとの場所に戻っているのです。
彼は、これまで家族同様の生活をする中で、どうすれば自分の要求が通るのか十分学習をしていたのです。私のいない間に妻の同情をかい、ゲージの位置を元に戻させてしまったのです。最近は車の音を覚え、私が帰る「出せだせ」と吠えますので仕方なく、ゲージから出してジャレさせて遊んでいます。
また、彼が部屋の中で遊んでいるときでも私が「アレッ!」と言うと吹っ飛んでゲージに入り、入り口が開いていても中で待っています。煮干のアタマが食べたいからです。賢いシェットランドは人間と十分コミュニケーションが取れているのです。
我が家には、他にも黒のラブラドールの雑種らしいのもいます。雑種らしいとは、このバーディー(最初の銘々は「ボギー」だった)は幼犬から虐待にされていたらしく、愛護団体から飼い主の募集があったことから、大体生後1年位で我が家の愛犬グループの一員となりました。
彼女は、やっぱりダブルボギーの様で、それまでの虐待で人間不信といいますか、人間とのコミュニケーションがうまく取れないのです。食事の際の「待て!」「良し!」も十分に覚えず、「ハウス」もよく理解できていません。偶に「吠えろ!」が出来ることもありますが、数日僕が餌を与えないと直ぐ忘れてしまうのです。この点リリーは先にいたシェパードの「ラッキー」が「吠えろ」「ゴロン」をしているのを見て、特に教えなかったのですが、自分からデングリ返るように「ゴロン」が出来ました。
リリーは、訳あって10ヶ月位で我が家に引き取られ、最初は「ハム」しか食べないと言われていたのですが、我が家では犬用の「ハム」がありませんから、3日ほど腹をすかした後、喜んでドッグフードを食べ始めました。亡くなるまでドッグフードが好きなとても利口な犬でした。リリーとの対決でハムとドッグフードの交渉には僕が勝ったのです。
以前確か、「ハーバード流交渉術」と言うような題名の本を読んだことがあります。要するに人間朝起きたときから寝るまで自分以外の人との「交渉」が大事であると言うような本でした。
「おはよう」といって目が覚めたとたん、娘は「お父さん、私の洋服古くなった」とか、「お父さん、今日は私の誕生日よ」などと交渉が必要になってきます。「今日はゴルフ」などといえば、怖い顔をした妻が「先週もゴルフでしたわね!」などなど、人間すべてが交渉の連続です。
弁護士の仕事もほとんどすべてが交渉の連続です。どうすれば自分の時間が節約でき、多い収入を得られるか、自分の興味のある仕事が出来るのか、この前飲屋で自分の隣に座っていた彼女と長話を続け、已む無く一人でロックを飲み干さざるを得なくなったあいつに仕返しが出来るのか、などなどです。
裁判だって全部勝てばいいわけではないし、うまく負けなければならない場合もあるし、ヤミ金におべんちゃらを言う時だってあるのです。借金の減額交渉をする相手であるサラ金業者に「大きなお世話ですが、減額されたこのまとまったお金を他に高金利で貸したほうが、ここで3万円を取るため頑張るより、早く儲けられるのではないか」、また場合によっては交渉相手が上司に説明するための理由付けを教えてあげて、こちらの有利に事を運ぶこともあります。この様にすべて交渉、相手とのコミュニケーションの連続なのです。
最近面白い本「自閉症の意識構造」(無量真見著、現代書館)を頂きました。帯には『自閉症は脳の器質的疾患によるものではない!』『テレビ・ビデオ漬け、デジタル的子育てが子供の意識構造を変えている』と激しい口調で書いてありますから、多分今の医学会では異端児でしょう。
しかし、この本では、71ページの「自閉症の発症原因に対する一考察」から、人間の子供が産まれた直後からのコミュニケーションの発達について考察をしています。
その中で、赤ん坊が生きることに必要な無意識の行動から徐々に人間的コミュニケーション獲得して行く道筋を考察しているところは、実証的検証ではありませんが、読む人をして十分納得させる内容となっています。そのほか空間、概念の認識など人間の根源的「知識獲得」にも考察を加えています。
我が家の犬だって、自分が生きるために飼い主とのコミュニケーションをとり、餌をもらうのです。ましてや人間ですから、普通に育てれば赤ん坊は、他者との関係を理解して自ら生きる術を獲得できると思います。
狼少年の例を引くまでもなく、人間の子供は人間に育てられなければ「人間になれない」のです。例えば、生まれたての赤ん坊の口にチューブで必要な栄養を与え、排泄物も快適に処理して人間が一切関わらないとしたら・・恐ろしいことですが、絶対「人間」にはなれないでしょう。人間は五感を働かせながら動物から人間的成長を遂げると思います。
以前、北海道で俳優を育てている脚本家倉本聡が若い俳優志望者に目を瞑らせ裸足で歩かせ、最初に人間の五感の働きを意識させると言うような新聞記事を見たことがあります。先ず、人間研ぎ澄まされた五感こそが生きるに必要なことではないでしょうか。
母親のぬくもり、母乳、不快を伴う昔ながらのオシメ、熱い、寒い、ザリザリ、がさがさ、甘い酸っぱい、臭い、などなど具体的感覚から人間的成長が始まるのではないか、そんなことを考えさせられました。知ってますか?最近赤ん坊はウンコの仕方までビデオで覚えるそうですよ。二次元の画面で・・・