2014年03月19日

『絶望の裁判所』が届いた

『絶望の裁判所』(瀬木比呂志著 講談社現代新書)が送られてきました。送り主は、広島から東京まで月に何度もボロ車を運転し、東京地裁の入り口で裁判所批判を命がけで行っている「変人」原敏恭(トシヤス)さんでした。(名前を間違えておりまして大変失礼致しました。紙面をお借りしてお詫び申し上げます。)彼は、元の勤務先での発明を会社に横取りされて裁判をしたものの、「デタラメ」な裁判で負け続けたことから残りの人生を賭けて、孤軍奮闘、ダークマターの司法権力と闘っている信念の人です。多少「変人」の私も彼にシンパシーを感じ、少しカンパしたところ、『絶望の裁判所』を送ってくれたということです。
私自身、今の裁判所は、全く信用できず「北ニ ケンカヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ」と全く同意見です。

先日、推定相続人である長男と次男から母親が認知症ということで、母親が妹の長男(甥)に貸し付けた金銭の返還を求めるため、長男を母親の後見人に選任してもらうべく佐倉支部に申立てました。担当は、若い女のG裁判官となりましたが、実際の手続きは裁判官でもない如何なる資格を持っているか分からない中年女性が、後見人候補者の長男に事情を聞き、母親の口座から長男と次男が数百万円の引き出しをしていることを見つけ、これを一度口座に戻すように言われました。兄弟は、兄を後見人に選任してもらえると信じ、裁判所の職員(?)から言われたとおり口座に入金したところ、あけてびっくり裁判所は、全く無関係の若手弁護士を後見人に選任しました。

これには私もびっくり、二人息子が単なる貸金の返還訴訟などをする必要から後見人の選任を申立てたところ、兄弟たちが全く望んでもいない二町歩ほどの田畑と山林、今誰も住んでいない住宅、銀行預金などの管理まで、すべて後見人の管理下におかれることとなりました。
私が裁判官に面会を求めても、この若いG裁判官絶対会おうともしませんでした。(後日の離婚調停では、私とは目も合わせませんでした。)

後見人は、誰も住んでいない住宅などは裁判所の許可も無く売却して後見人の費用に充てることもできないではないのです。それよりも、今後の母親の介護に関して縁もゆかりも無い後見人がどうしようというのでしょうか。裁判官は、単なる学校の知識はあるでしょうが、社会常識は、全く持ち合わせていません。
これまで、施設などで母親の面倒など見ていた長男は「だったら、母親、死んだほうが良いですよね。」と、本来、口に出すべきではないことをつぶやいていました。
裁判所は、二人しかいない兄弟の意向を無視して、後見人となった他人に母親の財産をどうさせるつもりなのでしょうか。しかし、裁判所はその結果には全く無責任で良いのです。
ですから、『絶望の裁判所』には、拍手を送りたいと考えます。裁判所は、国民無視、生きている人間が見えていません。知識はあっても智恵がありません。上しか見ないヒラメ裁判官です。

皆さん、裁判沙汰になる前にどうしたら紛争にならないか、事前に弁護士などからアドバイスを受け、紛争防止を図る必要があります。しかし、直ぐ裁判をやるための着手金を取るような弁護士ではいけません。権利・義務、契約がこうなっているなどと、平時と戦時の区別ができない間抜けな弁護士にも、ご注意を!私も大失敗ですかね。
posted by やすかね at 18:47| 千葉 ☁| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月18日

国家秘密と国民主権

今国会で秘密保護法案が問題となっています。要するに国家の秘密を諸外国からどう守るのかということなのですが、その前に国家の秘密とは何か、そもそも国民主権という建前の中で、国民に対して秘密を持つとは、どういうことか、が問題だと思います。
家族全員が対等平等の関係でありながら、自分だけは家族のナイショ話からシカとされていて良いのか、オレも家族なら、家族のナイショ話を聞かせろということですね。
司法試験の受験時代、確か「外交上の秘密」を論じたとき、私は、主権者に対して秘密などあってたまるか、と憤ったことを覚えています。
しかし、実際上、中国・韓国などを見ていますと、連中は、自分の国の歴史についても国民に嘘を教育して日本を悪者にしています。その他の国に対しても、国家の秘密は必要なのですが、しかし、国家の運営上「主権者」である国民に秘密があることは、ある種の自己矛盾です。(ですから、後述の様にアメリカは30年で全て開示)
これらをどうやって整理すれば良いのでしょうか、答えは簡単なのです。主権者は、国民でなく「官僚」なのです。ですから、官僚に都合の悪いことは、全て秘密に指定してこの秘密にアクセスしようとした連中は、「非国民」として刑罰に処するということです。
自民党の担当副大臣なども、官僚から「ゼンセイ、これはですね、センセイ」などと言いくるめられて、官僚の「教え」どおり、国会で答弁しています。
私も青年時代、人間は平等である、主権は国民にあるなどと息巻いていたのですが、実際は間違いなのです。民主政などという制度は、古くは2500年以上前から、ギリシャ・ローマなどでおこなわれていましたが、結局愚民政治となってしまい、その後は、皇帝という名の官僚国家が2000年以上続いてきました。
フランス革命の後も一時民主主義的になったのですが、直ちにつぶれ、またその後ナポレオンの甥というだけで、選挙民は自分たちに不利益な政治を行なうボナパルトを選びました、その後は皇帝の背後でというより、皇帝の名の下に官僚主義が続いたのです。
日本も、明治以来100年「天皇の名の下に」官僚によって国家が運営され、戦後は民主国家かといわれれば「選挙によって代表を選ぶ民主制」とはいえますが、国家運営は、明治時代と同じく、民主主義国家ではありません。ですから、官僚の都合の悪い秘密は、官僚が勝手に決めて、この秘密にアクセスしようとすると捕まってしまうのです。その様な法律を作ろうとしているのです。
しかし、選挙で官僚主権を打破できるなら、民主国家はできるのでしょうが、民主党しかり、現在の自民党然り、で結局官僚という国家の支配階級の権力を奪うことは、できない状況です。ですから、東アジアでの「平和」のためにも、国力の衰えてきたアメリカの片棒を担ぐため、アメリカと共通の秘密を持つため、わが国の官僚組織は、国家秘密の制定をしなければならないのです。
ところで、そのアメリカですが、アメリカは、民主国家ですから、維新の会が言うように全ての秘密は30年経過すれば開示されているのですが、政府与党は、官僚の言うまま動いています。
政治家は、何年かすれば引退するのですが、「官僚組織」は永遠なのです。
若干予断となりますが、私は、2011年01月20日のブログで「ネットの情報管理の危険」と題してインターネットの危険を論じたのですが、アメリカの情報についての執着、裏返しとしての秘密については、その後のスノーデン事件などで証明されました。この私の他愛のないブログも全ての情報がアメリカによって「傍受」されているのです。
過去のブログは、ブログの右端の「記事の中からの検索」でご覧下さい。「クラウド」でOKかな

posted by やすかね at 18:09| 千葉 ☀| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月11日

法科大学院は、無用です

司法試験合格者2049名、昨年比53人減、内法科大学院の合格者1929名で合格率25.77%、予備試験通過者の合格者120名で合格率71.9%、全体の合格率は26.8%でした。因みに予備試験の合格率が3%程度なので、予備試験からの合格率は2%程度となり、これは旧試験の合格率と同程度です。

『週間東葉経済』8月31日号では、「食えなくなった弁護士 会計士 税理士 「士業」崩壊」と題し、「弁護士の人気失墜の大元凶ロースクール解体勧告」の欄では、所属する法律事務所に経費を払って場所を借りる「ノキ弁」の実態を報道しています。「弁護士になるまでにかかった800万円の借金を返すためにも、割のよい民事事件を増やしたい。」と希望するも、食えない弁護士が続出しています。

私のブログでも04年10月1日司法修習生の給費廃止(実際は、2011年11月修習開始となった65期から)について「『借金』漬けの司法修習生の巻き」を書きました。修習生が「借金」漬けになったら、「『食えない弁護士、借金を抱えている弁護士』が社会の秩序を乱してくるのではないか、と危機感を感じます。」と心配したのですが、いまや現実となっています。

問題の根本は、当時の司法制度改革審議会(佐藤幸治会長)が弁護士の需要が増大するので、合格者を3000人にする必要がある、などと勝手な憶測(デタラメ)「嘘」を根拠に現在のロースクール制度を強行したことです。その延長で、司法修習生の給費をなくす一方、このロースクールに対し、現在まで750億円の国の補助金(主に法科大学院の教員の給与)が使われています。大学院のセンセイが司法修習生の給費を横取りしているのです。

振り返れば、合格率2%の「難しい司法試験で人生を誤る」、とか「弁護士の需要が増大する」などの「嘘」ではじめたロースクール制度は、出発点で存在した法曹界からの強い懸念・反対を押し切って強行し、現在では、当時の心配が現実となってしまったのです。

アメリカの歴代大統領は、戦争のたびに「トンキン湾でアメリカの船が、攻撃を受けた」(ベトナム戦争)とか「大量破壊兵器がある」(イラク戦争)などという「嘘」で、数百万の尊い人命が失われたことを思えば、佐藤幸治会長らの嘘による被害は、たいしたものではありませんが、ロースクールの失敗が明らかになった現在も、司法制度改革の旗を振った大学教授は、大増員に反対する弁護士を批判し、奇しくも言ったそうです。『食べていけるかどうかを法律家が考えるというのが間違っている。(無償の人権・社会活動という理念で)人々から感謝されることがあるのであれば、人間、喜んで成仏できる。』(前出104頁)そうで、全く、開いた口が塞がりません。

自分達は、国の補助金等でロースクールの教授として高給を取りながら、食えなくなった弁護士に対しては、「霞を食いながら、人に感謝される法律家であれ」と言うほど自分勝手で、嘘つきで、人には聖人君子を押し付ける輩が、法科大学院の教授センセイなのです。

いずれにしても、東洋経済で報道するように、法科大学院では、弁護士などの実務経験者は2割で、司法試験に合格もしていない教授が8割もいるそうですから、司法制度改革で求められた法曹教育は、絵に描いたモチとなり、実務で約に立たない若手弁護士が急増しています。

いまや若い法曹希望者は、司法試験の受験資格のため、役にもたたない講義をしている大学院の学費支払が大変です。
結局、受験期間とその間の資金などを鑑みますと、法曹資格を得るために最善の選択は、旧試験同様、難関である予備試験(合格率3%)に挑戦し、さらに本試験を突破(旧試験同様、2%)することです。現実にこの予備試験からの合格者は、企業などから引っ張りダコ、だそうです。

最後に、この予備試験を敵視して、予備試験制度をなくせと、現実を理解できず、時代錯誤の主張をしていたのが、千葉県弁護士会出身の四宮啓先生でした(11日、読売新聞)。まさか、教授の椅子を失いたくないと考えているわけでもないでしょうね。四宮先生ではないでしょうが、前述のように、法科大学院の必要性を唱える先生は「食べていけるかどうかを法律家が考えるというのが間違っている。」と超エラソーな、事をいいますが・・・しかし、食えない弁護士が、社会秩序を壊してゆくのは、必然でしょうね。ああ怖。
posted by やすかね at 17:37| 千葉 ☔| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月10日

夫婦間の貞操義務

以下は、夫婦間の貞操義務について、これから裁判所に提出する準備書面の一部です。多数のご意見をお願いします。
1. 「原告が平成6年ごろから更年期障害を患い,性交渉を厭う(ママ)ようになったことをもって夫婦関係の破綻を主張し,性的満足を得るために行なった自らの不貞行為を正当化するもの」とか「被告自身の身勝手振りを披瀝し」などと人格非難をしている。しかし,この原告の主張・被告に対する非難は,許し難いものである。
2. そもそも夫婦が男女で構成される最大の目的は,自らの子孫を残すための性的関係とその満足を得るためであり,これは人類普遍の原理である。この様なことは,公開の法定で延々と述べるべきものではないが,人類誕生以来,生物の存在自体に由来する根源的なものであり,原告代理人がこれを否定することは,できないはずである。
3. また,原告代理人は,被告が性的満足を得ることが恰も『自分勝手,原告に忍従』を求めるものなどと主張しているが,個人が性的満足を得るために行動することは,憲法13条の幸福追求権の具体的現われである。そして,原告が主張するように,夫婦の性的関係において相手方に忍従を求める状態では,既に夫婦関係は破綻しているものといわなければならない。
4. 確かに,統計的にもわが国の夫婦間の性的関係は,世界でも稀なほど少ないが,だからと言って夫婦の性的関係がなくなれば,夫婦間で,その外の共通の趣味などを持つことで「仮面の夫婦」を維持しようとする特別の関係がなければ,原則的に夫婦関係,少なくとも貞操義務の関係では,破綻していると考えなければならない。
5. しかしながら,殊更「きれいごと」を求める法曹界では,夫婦の性的関係がなくなっても双方が貞操義務を負担するなどと御伽噺のような主張をすることも少なくない。特に自ら性的能力がなくなった知識人が,道徳的観点から,その様なきれいごとを主張する事があるが,噴飯ものである。
6. しかし,この様な主張は,全て欺瞞であり,健全な夫婦の法律関係の主張といえるものではない。それ故,夫の性的満足を卑しいものなどと考える社会的背景(社会的背景としては,有料会員である女性から無料の男性会員に対するアプローチができるサイトもある)などから,夫が性的満足を得るためかは,明らかではないが,極端な突出した例として,過去,高等裁判所の刑事裁判官が少女買春をして逮捕されるという事件もあった。
7. 要するに夫婦の一方が,正常な夫婦関係を拒否すれば,そこには他方に対して貞操義務を求める法的根拠もなくなるということである。従って,原告の主張は憲法24条にも違反する主張である。
posted by やすかね at 17:42| 千葉 ☀| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月03日

社会のエリートとしての弁護士

老獪弁護士の勇み足から

弁護士は、相手方に資格のある代理人がついたときは、その代理人の頭越しに交渉などしてはいけないことになっています。ところが、最近東弁の老獪弁護士が私の頭越しに直接私の依頼者宛て内容証明郵便を送りつけてきました。
80歳の依頼者があわてて私に連絡をよこしましたので、やむなく準備書面と言うことで相手方弁護士に「理由を求め」たのですが、案の定何の連絡もありません。
弁論期日になっても一言もお詫びもありませんでしたから、東京弁護士会綱紀委員会宛「倫理規定に違反しているので、然るべき処分を求める。」と懲戒請求書を送りました。

程なく、東弁の事務員『原本とコピーをあわせて5部送ってください。』との事です
私がどうして5部も送る必要があるのか、ときいたところ『東京弁護士会の規定です。」と鼻をくくった返事です。
ご立腹の小生「どうして私が、東京弁護士会の規則に拘束されるのだ。」と言いますと、理由を付けられなくなって高いところから超エラソーに『では送っていただけないのですね!』と強く出てきました。「送らなかったら却下するのか。」などと理屈を述べているととうとうこの女『上司に代わります。』と電話を代わりました。

総務課長殿はさすがに東京弁護士会の規定に従えといえなくなり、『お願いと言うことでコピーを4部送っていただいています。』との事です。冗談ではありませんが、要するに東京の弁護士会の事務員の仕事を減らしたいというのが本音です。一体事務員は誰から給料をもらっているのだ。といいたいですね。

そもそも老獪な弁護士が倫理規定に違反して私の依頼者を苦しめているのですから、私が高慢な女事務員のやるべきコピーに手間をかけるつもりもありません。再度「コピーを送らないと却下するのですか」と聞きますと総務課長さん『綱紀委員会におくります。」と言うことです。

何の事はありません、結局原本だけを送れば良いのですが、東京弁護士会の弁護士がマヌケなことをして懲戒請求をした場合、殆どの人が4部もコピーをして高慢チキな事務員のお手伝いをさせられているのです。
弁護士法で弁護士会の自治権が認められていますが、これは仲間内でもアホナ奴は処分するということで弁護士に対する社会的信頼を確保しようとしているのです。最近はあほな弁護士が多くなって、弁護士に対する社会的信頼が揺らいでいます、というより既に地に落ちています。

ポピュリズムと言うことがありますが、衆愚政治は、政治家がアホナ国民に迎合する政治ですが、これは要するに社会のエリートが国民の信頼に応えていないということの裏返しです。
医者が「患者様」などといって患者に説明と納得を得ておけば、結果に責任を負わなくてよいということですが、これなどもインターネットの情報でアホナ患者が医者と対等だと考える間違いです。

要するに社会がエリートに対する尊敬をもてなければ社会は進歩しません。専門家集団は崇高な理想をもってプロとしての仕事をしていかなければなりません。ですから、アホナ事をしでかす専門家は専門家の集団から排除していかなければなりません。そのために自分もいつも切磋琢磨する必要があります。

書きなぐっていますと、どうしても長い文章になってしまうのは、まだ未熟のせいです。推敲の余裕も必要ですね。間違いがありましたら、是非ご批判をお願いします。
今日も戦っています。やすかねです。

posted by やすかね at 13:09| 千葉 ☀| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月22日

わが国の通訳事件の実態

最近、イギリス人女性の殺人事件で通訳人の力量が問題となりましたので、2009年12月9日のブログを若干手直しして再掲します。また通訳のことが「事件」となったのですが、その話は後日とします。

刑事事件と言うと厳格な手続きで行われるというのが常識ですが、現実の裁判では相当いい加減なのもあります。
 先月のことです。フィリピン女性の出入国違反の事件がありました。11月26日の裁判と言うことで、起訴状などが11月13日FAXされたと同時に通訳人はフィリピンに帰っており、20日にならないと帰国しないということでした。元々当番事件で、直前に入ったものですから、困ったなと思いました。
そこで20日になって事務所から通訳人の携帯に連絡(通訳人の携帯は海外でも受信できるとの注が入っていますが、国際電話の料金は当然弁護人もちです。)を入れ、21日(土)の接見をお願いしたところ、彼女、大丈夫と言うので今度は、僕の携帯から電話を入れたところ、通訳人は「いま福岡にいて・ボランティアがどうのこうの」と関係のない話をしているので「余分なことは良いですから」と遮って「21日が駄目なら、では、接見は何時出来るのですか。」と尋ねたところ、今度は25日はどうのと勝手なことを言っていました。
やむなく24日午後司法支援センターに通訳人の候補者リストを貰うことにしましたが、通訳人の普通の電話番号を見ますと都内とか埼玉などでしたので、今日の今日とかは都合が付かないであろうと思いました。
ところで、接見前の記録閲覧で、被告人は来日二回目で、今回は12年前の来日であり、仕事もスナックのホステスなどでした。
外国人でも単純労働とか3Kの仕事ですと日本語を話す機会が少ないので12年間日本で生活しても日本語は中々上達しませんが、日本人の男性客相手のホステスですと日本語が上手に出来なければ、稼ぐことも出来ません。ですから、私は被告人の日本語能力を信頼して、通訳人なしでも接見できると考えました。
県警本部に接見に言ってみますと、被告人は十分に日本語が話せ、これならフィリピンに帰国しても十分通訳としてガイドなども出来ると思いました。
通訳事件は、被告人の権利を守るため通訳人をつけるのですから、弁護人が通訳人なしで接見をするなら、通訳人がいる以上に、きちんと話が出来なければ問題となりかねませんから、私は調書に記載されていない事実関係の聴取に心がけました。
被告人の話によりますと、フィリピンに子どもがいる、子どもの父親は、被告人が妊娠6ヶ月のときピストルで撃ち殺されてしまった。彼と知り合ったのはジプニーの中であったなどなどです。
今回のパスポートに張られている写真は本人のものらしく、記載されている名前が被告人の名前と類似していることからこの点に触れると、その名前は自分の姉である(信じられませんが、検察官の調書にも記載なし)ことなどが判明しました。当然パスポートは名前が違うもののいわゆる「偽造パスポート」とは違います。(検察官はこの点についての認識がなく、また証拠もないのに法廷で「パスポートは偽造だ」と主張しましたので、私が異議を述べると撤回しました。)
公判前日、通訳人から「弁論要旨をファクスしてくれないか。」と連絡がありましたが、お断りしたところ、今度は裁判所から「通訳人に弁論要旨をファクスして頂けないか」とご連絡がありました。
私は、「言葉が適当ではないが、通訳人は嘘をつくし信用できないから他の人に代えたらどうか」と意見を言いましたが、担当書記官は『せっかく探した通訳人』と言うことで通訳人を代えることが出来ませんでした。
公判当日です。通訳人は、私の顔を見るとやけに頭を下げるのですが、私は出来る限り無視することにしました。人定質問(被告人の本人であることの確認手続き)になりました。2部S裁判官から「被告人は、〇〇と言う名前と××と言う名前の両方をつかっていたか。」との質問がありました。
被告人はタガログ語で「いいえ」と答えたらしいのですが、通訳人が「はい」と通訳したので、被告人はすぐ、私の顔を見て「違う」ことを告げました。
私が「裁判長、今通訳人はハイと答えたが、被告人は違っているといっている。」と言うとS裁判官は被告人と僕の呼吸が分からなかったらしく「弁護人の言っていることが分かりません。」と言うので私は、立ち上がり「いまの裁判官の質問では、被告人は二つの名前を使っていたのかとの質問だったと思うが、被告人はイイエと答えたのに対し通訳人はハイと通訳している」といいますとS裁判官は高圧的に「弁護人座ってください。」と言ってきました。
この裁判官、他の事件でのこと検察官の発言に私が座ったままちょっと反論したところ「弁護人!立って話してください!」と言った様にかなり権威主義的なところが感じられる裁判官です。
それはともかく、この裁判では私が被告人に質問し、被告人も日本語で話したことから、通訳人の仕事量は相当少ないようでした。(因みに通訳人の費用30分以内8千円、以後10分毎に千円、遠距離移動交通費と別に4千円の日当が支給される。昔は月に100万円以上稼ぐ通訳人もいた。)
通常の通訳事件ですと、同じことを日本語とタガログ語で二回言いますし、特に通訳人がいい加減ですと時間は二倍以上かかってしまいます。それにも拘らず、今回の通訳事件を当初の予定時間としては30分でやろうというのです。
ですから、審理の内容も全く形式的なことになり、被告人が日本に滞在した期間の長短のみで論告と判決がなされるといっても過言ではありません。ですから私が、接見で調書になかったことを聞き、これを被告人質問と弁論要旨でやるだけでも時間が足りなくなります。
ともかく、被告人は私の弁論を聞いていて、特に2歳のときから12年間顔を見ていない娘のことに触れると、涙を流していました。
最後にS裁判官が被告人に対し「今、弁護人は『異国』と言う言葉を使いましたが、その意味が分かりますか。」等と嫌みなことを聞いていました。
私は思わず「裁判長!日本人だって冒頭陳述、素因変更、検察官面前調書、執行猶予などの日本語の意味分からない人が沢山いるぞ!」と怒鳴りたい衝動に駆られましたが、どこか外で仕返しをする機会もあろうからと、その場は「丸く治めました。」私も最近人間が丸くなったのでしょうかね。ヒヒヒ
posted by やすかね at 17:00| 千葉 | Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月26日

裁判官は綺麗好きです

某有力保守党政治家が、仲間の政治家に対し右翼の街宣活動を中止させやるから金を払え、そうしないとあんたの選挙区でガンガンやる。やられるとアンタ次の選挙が大変だなどと「恐喝」した事件がありました。

証拠上は明らかに被害者である原告が有利ですが、裁判所では地方裁判所でも高等裁判所も共に請求を認めてくれませんでした。第一審判決後、「裁判官は綺麗好きだから、このような政治家の、一般人から見ると観たくもない事件なんか、その結論はどうでも良いんだよ。」とつぶやきましたが、高等裁判所の裁判官もやはり同様でした。

高等裁判所では、原告の外にもう一人350万円を脅し取られた現職議員の陳述書も提出したのに対し、被告は『時機に遅れた攻撃防御方法だ。』などと反論はしたものの、その内容が間違っているなどと言えませんでした。結局、証拠上明らかに原告有利であるのにも関わらず裁判所は、被告に対し支払った金を返せとは言ってくれませんでした。

民法の冒頭に「私権は、公共の福祉に適合しなければならない。権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行なわなければならない。権利の濫用はこれを許さない。」と定め、この条文は「信義誠実の原則、権利の濫用は許さない。」と言われ、法解釈の大原則となっています。

最近少なくなりましたが、ヤミ金から高利で金を借りて一定金額の「利息」の支払をしたような場合、かねてから私達弁護士が「10日に1割などというような犯罪行為になるような金の貸し方をした場合には、貸した付けた金は『不法原因給付』であるから返済しなくて良い。また利息として支払った金銭は、もともと返さなくて良い金銭に対してのものだから、法律上の原因がないまま支払った金銭(『利息』)だから返還をさせることができる。」と頑張っていたところ、最高裁判所も最近『ヤミ金などから借りたものは返さなくて良い。利息として支払った金銭は返還を求めることができる。』と判断するようになりました。

要するに、「覚せい剤を買ってきてくれ。」とお金を渡した者は、その金をネコババされても仕方がない、法律が関与することではない、という事です。
法律の救済を受けるものは自らクリーンでなければならない、「クリーンハンズの原則」という事です。この原則に反する「社会活動」の中では法律は関わりを持たない、また犯罪行為の被害者に対し、国家は「司法が法に従って、アダ討ちをするから、自力救済を禁止する。」と宣言します。

これを裏から言うと国家が救済を行わない範疇では自力救済でも何でもやれ、とまでは言えませんが、国家は汚いことには手を染めない、これがまた法を担うエリート法曹の感覚です。皆さん!神の手に近い、法の救済を求めるなら、常にわが身を潔白にしておかなければ成らないのです。ですから、儲けようとして損をしても誰も救ってくれませんよ。と言うことです。

今回の裁判を振り返って感想を述べますと、政治家とヤクザを一緒にすると叱られますが、結局法律家、特に裁判官は、政治家はヤクザの親戚と考えている、と思っておけば間違いはないということです。『悪い奴程よく眠る』という映画がありましたかね。悪党になるならトコトン大物になる必要がありそうです。
posted by やすかね at 14:40| 千葉 ☀| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月21日

性もない裁判官

裁判官は、身分が保証され、報酬も公務員の中ではトップですが、それだからこそ、御身大切とばかり、何かにつけて、自分に責任がこないようにアレコレ細かいことを言います。

これは、15年ほど前の古いことですが、85万円の借金を負担した、女性パートの高齢者、裁判菅は85万円くらいなら返済できるだろうと破産決定を嫌がっていました。私が、「裁判官!時給850円で働いて1000時間ですよ、一年間(パートだから)、ただ働きしろと言うのですか、破産決定が出来ないなら、却下してくれて結構です。」と却下決定に不服申し立てをするつもりで強く言ったところ、それならということで破産決定を出しました。

最近では、オーバーローンの家を抱えていたので、破産同時廃止の申請をしたところ、裁判官は管財事件にするというのです。これで、家の処分がつくまで長い時間がかかり、管財費用(20万円)も余分に必要です。新米の弁護士がスゴスゴ帰ってきたので、管財費用のあてもないので仕方なく「取り下げ」て、最近また出し直しをしたところ、また同じ裁判官です。

今度は妻の医療費の支払をしたことを証明できる書類を出せ、ということです。裁判官の言い分は、毎年確定申告をしているし、きちんとしているようであるから領収書などあるはずだ、というのです。
実際、几帳面な人なら借金まみれに成ることなどありませんし、その確定申告も全くいい加減なものでした。そこで私が横から話をしようとするとその裁判官「代理人は黙っていろ」と遮られてしまい、私はムッとして黙り込んでしまいました。代理人としての意見を言わせないのです。

実に時間の無駄と思われるようなことをくどくど聞いていました。大体短い時間で破産者にお説教などできるはずもないのに、自分が神様のごとくお説教するのです。そんなお説教は事務所でやっているし、裁判所に破産の申立をするということ自体、本人にとってこの上に反省の機会なのです。だから、いいじゃないか、その程度でと考えますが、自分は偉い裁判官だからと思い違いをしています。

結局、裁判官も自分の疑問点をくどくど聴いてしまったので、それほど「疑問」があるとすれば、責任を持って破産同時廃止という決定をすることが出来なくなってしまいました。そこで、本人と代理人に納得の行く説明資料を持って来いということになり、本人が病院に領収書の再発行をお願いに行くはめになりました。

そこで、債務者が病院に赴きお願いしたところ、病院では領収書などの再発行に一枚500円かかるということで5年分だと3万円ほどの費用が必要となります。已む無く、費用節約のため、5千円払って弁護士会を通じて、医療費の概算でも提出願いたい、と申し入れをして、裁判所を待たせていると、裁判所の担当書記官から、その後どうなったかとの問い合わせがありましたので、これこれしかじかで、病院から報告があり次第提出すると回答し、また病院にも電話して、極めて丁重に「大変ご迷惑をお掛けしますが、何しろ裁判官が出せというのですから」とご迷惑をお掛けするのは裁判官であることを十分ご説明してお願いしたところ、事務長さんも快く応じていただきました。

ところがですよ、翌日裁判所から破産決定が送られてきました。そこで急いで病院にムダなご迷惑をお掛けしては申し訳ないと思い、「昨日の件、如何でしょうか。」と電話をしたところ『午前中郵送しました。」という事です。「あーあ、なんてこと」と大変申し訳なく思いましたが、「そうですか、大変有難うございます。助かります。」などと小さなウソをつくはめになりました。こうなると、アホナ裁判官のために、ウソをつかされ、病院には大変なご迷惑をかけてしまったことになります。必要でもない裁判官のつまらないお説教を聴き、事件には全く関係のない第三者の病院にはお詫びのしようも有りません。とにかく、病院から送られてきた回答書は弁護士会の役員の間で「決済」をしてこれが代理人弁護士の手元に来るまでまた1週間程度かかります。つくづく裁判官の権力がムダに使われるのは害がありますね。

竹中平蔵さんと冨山和彦さんの対談本『日本経済今度こそオオカミはやってくる。』(PHP)で明治維新後近代国家の体裁を整えるべく記憶力のよさそうな人間(これは記憶力は良いが、本当は頭の悪い人間のことを言っているのでしょうね)を集めるために試験を行った。と書いてありますが、現代の裁判官も恐らく同じ程度でしょうね。

今回の件をおさらいしますと、あの裁判官は破産決定を中ぶらりんでいることに対してきっと面倒になったのでしょうかね。裁判官お勉強だって出来ますから、人間はだれでも物事を整合的に考えることができる、と誤解しているのですね、ですから、破産するような人の頭の中が理解できないでしょう。
  
しかし、世の中、全ての人が物事を合理的に考え、整理整頓が出来ているなら、裁判官も弁護士も警察だっていらないんです!みんなある意味で馬鹿だし訳が分からないから専門家がいるのです。その辺の事情が分からずに裁判官なんかやっていられると、普通の常識人が迷惑を受けるのです。あーあ馬鹿馬鹿しい。手間暇と5千円さらには病院に大変なお手数を掛けてしまいました。弁護士会だってムダ骨を折ったのです。

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2010年11月09日

刑事鑑定書の問題点

裁判で、高度な科学的判断を必要とするとき、必ずしも専門家ではない裁判官の事実認定に対して必要となるのが鑑定です。
古くは、古畑鑑定などという罪作りな「鑑定」もありました。どういうわけか「科学者」が裁判所から鑑定を求められると『博士』という人種は「偉くなる」のですね。
そういうわけで、この様な偉い肩書きのない私たちはどうしても『〇〇博士』などといわれると嫉ましさからですか、「条件反射的反発」をしてしまうのです。『博士』ですから「素人」が常識的に質問をしたりしますと「なんだ、お前、そんなことも分らないのか」などと質問者をさげすみながら、実はとんでもない間違いをしていたりするのです。

有名な古畑鑑定では、鑑定人が「俺が真実を述べるのだ」などと殆ど神様のように偉くなってしまい、とんでもない冤罪を作り出していたのです。
昨日は、大した事件でもありませんでしたが、公訴時効直前の5年前の業務上過失致死(今は法律も変わりました。)の事件でした。時間がかかったのは有罪とするに足りる証拠が不十分だったのです。そこで、鑑定が出てきました。

検察官は、起訴するのであれば、通常遅くとも事故の1年以内には「裁判」になるのですが、本件は5年が経過しようとしていました。

目撃証人もおり、この証人の調書も出来ていました。この調書によると証人は24年以上バイクに乗っているバイク専門店の店長です。

彼の証言(調書も)によると、青信号になり、発信した証人のバイクを赤いバイクは、証人が事故目撃の直前80キロで43.8m走行する間に84.8m進行していますから、証人のスピードから被害者のスピードを換算すると被害者は150キロ以上の猛スピードで交差点に突っ込んで行った事になります。証人は120キロ出ていたと証言しています。

これに対して鑑定人の「博士」は、バイクは衝突で車軸が42センチ短縮したので、「バリア換算」すると69.1キロであるからという理由であとは車の凹みを測った警察官の測定記録を見て、運動量保存法則の換算式を参入するとバイクのスピードは81キロ以下である、と「権威付け」していました。そもそも、最初に69.1キロと「判明」しているのであればそれ以上の計算は不要でしょうにね。バリア換算が仮の速度なら再度式に入れなおし、計算するのが正しいでしょうにね。

この鑑定人は、現場はおろか、バイクも車も見ずに、バイクが何センチ短くなった、車の凹みがどの程度であったからこれを計算式に入れるとバイクのスピードが速くても81キロであるなどと言っているのです。

大体、金属が塑性変形するにエネルギーが必要でしょうが、それは金属の性質・形状・加工の方法などで強度も異なるから、異なった材料とか様々な車両の形状などを元に実験を繰り返したデータがなければ凡そ信用できないであろうと思いますのに、材料の違いなど無視したデータを元に『算出』した数字が正しいと決め付けています。

現場に行けば、正確な距離と時間が分りますから、ここに長年の経験に基づく「感覚」でのスピード感でスピードを計算したほうが、訳のわからないデータを元に常識とかけ離れた結果を出すより『真実」に近いでしょうね。経験の長いバイク乗りのスピード感覚の方が「科学的データ」より正しい速度がでーたりしてね。

僕は、鑑定人に現場でのスピード感覚に基づいて距離と時間で算出されたスピードから謙虚に換算速度を見直す考えはありませんか、と聞いたところそのような謙虚さは残念ながら持ち合わせていないようです。全く困った鑑定人ですね。この程度の鑑定人に数十万円の鑑定料を払うほど税金の無駄遣いはありません。
あーあ馬鹿馬鹿しい!

posted by やすかね at 17:08| 千葉 ☀| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月06日

大阪地検特捜部から・・わき道へ

大阪地検特捜部の事件は、「特捜部長の逮捕」とあってはならない「事件」となりました。そこでテレビを見ますと元東京地検特捜部副部長などという弁護士のセンセイが『私たちのときはそうではなかった。』などときれいごとを言っているのですが、20年ほど弁護士をやっていますと、正にテレビでの先輩のコメントは『きれいごと』でしかありません。

このきれいごと発言を聞いていますと、つい「お前達先輩が『指導』してきた結果でしょうに!」と怒鳴りたくなります。

それではなぜ、無実の人を罪に陥れる様な人間が国家権力の中枢にいるのでしょうか。どうしてあんなに罪を作るような検事が天下の特捜で(罪を作る)現場にいたのでしょうか。結論を申し上げるとそれは、検事の調書を何でも信じてしまう馬鹿な裁判官が多いからです。

刑事裁判では有罪とするためには「合理的疑いを入れない程度まで証明される」ことが必要です。

ついでにいますと民事では原告と被告でどちらの証拠が優越しているか、となるのですが、現実には原告とか債権者には刑事よりも厳しく立証せよといわれているのです。裁判官の石頭は書面主義ですから、商工ファンドのような悪党がのさばれる「法治国家」となってしまったのです。(また段々腹が立ってきて・・大阪地検特捜部のことはまた後日ということで・・)

話が飛びますが、民事事件で原告が勝訴判決を貰い、これが確定すれば、国家権力によって、裁判の原告から、強制執行をやってもらえる、強い債権者となるのです。これを裁判で負けた(被告)債務者から逆に見ますと、債務者の財産権は債権者との関係では保障されていないということです。

ですから、国家権力は債権者の利益を守るため、債務者の財産を追いかけてこれを強制的に取り上げ、これを債権者に引き渡す義務があるということです。

裁判で勝ったり負けたりすることはこの様な関係となるのです。ですから、裁判で負けると、とても怖いことなのですが、ところがどっこい、国家権力はいい加減なんです。

実際の話ですが、原告が裁判で勝訴して(国家権力の後ろ盾を持つ強い)債権者になったのですが、債務者は債権者にお金を払わず、せっせと生命保険会社に掛け金を支払っているのです。保険は貯金などと同じように債務者の財産ですから、国家はこれを差し押さえ、これを債権者に交付すべきなのです。しかしです・・

そこで、債権者としては頭にきて、裁判所を通して保険会社に生命保険を解約してその解約返戻金を支払え、と言いたいのですが、さてその保険会社は判明しても、信じられないのですが、裁判所が大きな壁となって債権者の前に立ちはだかっているのです。

債権者が裁判所に対し、保険会社(第三債務者という)に差し押さえ命令を出してくれといいますと、裁判所は債務者の名前だけでなく『保険証券を出せ、保険の種類を明らかにしろ』と言ってくるのです。

保険証券など債権者の手元にあることこそ不思議ですから、債権者としてはあらかじめ保険会社に対し、保険を特定するためには何が必要か、と聞いたところ、保険会社は『住所・氏名・生年月日などわかれば保険証券などなくても契約者の保険の種類は特定できる。』ということです。

当たり前ですよね、同姓同名がいることは当然としても、さらに生年月日が明らかになれば、大体特定でき、さらに住所も現在の住所でなくとも保険会社に残っている過去の住所でも債務者の個人が特定できるはずです。
そんなことはパソコンの画面に1秒もかからず出てくるのです。

ところがですよ、裁判所は、債権者の方から保険契約の種類などを事前に明らかにしないと、第三債務者が回答できない恐れがある、などと全く信じられないことをいうのです。

この馬鹿馬鹿しいことについて文句を言うと裁判所がなんと答えたか分りますか。「第三債務者がもし回答できないとき、債権者から損害賠償請求をされる危険性がある。」というのです。

損害賠償請求をされるということは、保険会社に存在していた保険契約があったのに、保険会社がこれを故意過失でもって裁判所(債権者)に違ったことを回答した場合なのです。

いいですか、保健会社は契約者の名前とか保険料とか引き落としの日時などからも十分債務者の保険を特定できるといっているのです。仮にそうでないとすると契約者が証券などを紛失した場合に保険金を受け取ることが出来なくなり、保険会社はぼろ儲けをすることが出来るのです。こんなことはありえません。

今の時代、名前だけで全ての保険契約の一覧表を作成できるのです。その中から生年月日・住所・保険料などいくつかの検索ワードを入力すれば、すぐさま個人の契約が特定できるのです。裁判所から差し押さえ命令がくれば債務者の契約を特定してこれから直ちに解約返戻金額を計算して、これを裁判所に報告できるのです。こうすれば債権者は、目出度く裁判で勝った結果の一部を回収できるのです。

この様な社会実態があるにも関わらず、裁判所は明治時代のような感覚で債権者に対して厳しい条件を出してくるのです。腹ただしいですが、裁判所は保険会社の利益(解約されると保険会社の契約高が減少する)を代弁して、自分たちの判決を無意味なものとしているのです。だから某弁護士は『判決なんかあってもケツも拭けない。』といわれるのです。

裁判制度、法治国家、自力救済の禁止、いろいろきれいごとを言う割には、裁判所は悪党に有利なように、悪党の財産権を保証し、債権者の利益を十分擁護しようとする姿勢がないのです。

こんなところがわが国の裁判官のレベルなのです。出来の悪い部類ですけどね。

しかし、優秀な本当に優秀な民事裁判官に先日お会いしました。この事件は、民事・刑事・弁護士懲戒・再審と場合によっては、特別刑事部の検察官の罷免要求などもありうるような「事件のデパート」のような事件での民事の証人尋問(当事者)で、実に見事な訴訟指揮でした。この様な超優秀な裁判官が千葉地裁には、今いらっしゃるのです。機会を見てご報告します。

そういえば、大阪地検特捜部にも副部長に対して涙を流しながら訴えた検事さんがいたそうですが、この部下の真摯な訴えを聞いて、村木さんの起訴の取り下げを決断できなかった特捜部長なども、やはり出来の悪い年功序列の人事が生んだ弊害でしょう。また長くなってしまいました。

posted by やすかね at 17:15| 千葉 ☁| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月06日

現代文と数学の論理

週間東洋経済で佐藤優氏が連載中の「知の技法 出世の作法」(7月31日号と8月7日号)で『文章の読解力を飛躍的に向上させる手法』が書いてありました。

この中で筆者は、読者から『勉強してもそれが知識として定着しない。』との相談に対し「勉強の仕方に問題があり・・日本語の読解が正確にできない、」「この問題を克服するためには、高校レベルの現代文を別の角度から勉強し直すこと」と解説し、大学受験参考書「出口汪『NEW出口現代文講義の実況中継@・A・B』(語学春秋社)」を紹介しています。

出口氏は、この参考書の中(孫引)で『現代文というのは、君たちの論理的思考能力を問う教科です。・・入試問題にはいろんな教科がありますけど、所詮・・論理と知識ですね。』『現代文で必要なのは、9割が論理的思考能力です。』要するに佐藤氏も「論理を無視した知識はすぐに記憶から消える。」と解説するのです。

僕も受験生時代は「理解できないものは、絶対記憶できない。(知識にならない)」と考え、教科書が真っ黒になるほど線を引き学者の「論理」を「解読」しました。もう本が汚くなり、3冊も買い換えた憲法の教科書もあります。

今でも忘れられないのが、大塚刑法です。司法試験委員の先生の教科書ですから「絶対正しい」と考え『共犯従属性説は、犯罪共同説の論理的帰結である。』とのフレーズを約3年間悩み、その論理を考えていたのです。

ところがですよ、あるとき受験生仲間から『それは、なんだか書き換えた(見解を変えた)らしいよ。』と聞き「ナ・ナ・ナニ!」と驚き、そのとき以来学者センセイも絶対ではない、と知ったようなわけです。

また、佐藤氏は引き続いて7日号で「論理を読み解く意味で数学と現代文は近い」と解説しており、これこそ「わが意を得たり」とこのブログを書くきっかけとなりました。正に数学と現代文が「論理」で読み解くという切り口から見ると親和性が高くなるのですね。

ですから、僕も司法試験に合格以来、司法試験は文科系の人間でなく、理科系の人間のほうが向いているのでは、と考えており、さらに弁護士になってみますと正に法律の文章は「論理的」でなければならないので、法律家には文化系人間より、理科系の人間が向いていると実感しています。

一流の〇〇大学法学部出身者でも相当訳の分からない、論理の飛躍した(要するに『走る馬のクソ』、とか『馬のクソの川流れ』というように、支離滅裂でバラバラの文章)「準備書面」などを書いて、平気で数十万円から百万円の料金を取る人もいるのです。(正に「取る」ですね)

そこで、弁護士を始めて30年という先輩弁護士(横浜弁護士会)の文章を題材に少し「論理」を解説します。(違った角度で事務所のホームページ「やすかネタ」に書いてあります)

この事件は、遺産分割調停のお話です。母親が入院先で亡くなり、亡くなった後で病院に来ていた一人が亡くなる3日前に書かれた遺言書で遺産の独り占めをしたらしいのです。

「怒った?」外の姉妹が横浜の弁護士に依頼して、遺言があることを前提として「遺留分減殺請求の調停」を申し立てたようです。

しかし、この依頼を受けた弁護士は、調停を提起した後、(申立人の有利となる)遺言の無効を争う趣旨でしょうよね、入院していた病院の院長宛診療記録などを提出しろ、と言ってきたのです。
ちょっと長いですが、教材とするため引用します。「3、照会を必要とする理由」として次のように書かれています。

「被相続人をAとする相続で、相手方が遺言者を被相続人とする遺言により遺産を単独で取得した可能性が強まったため、申立人らは千葉家庭裁判所に遺留分減殺の調停を申立て、第1回目の調停が本年7月〇日に行われた。その調停の席で相手方は被相続人を遺言者とする公正証書遺言を提出したため、申立人は初めてその場で公正証書遺言を読み、その内容の異常さと遺言作成が本照会先の病院の病室で遺言者の死の3日前に作成されたことを知り、当該公正証書遺言の有効性について強い疑問が生じた。当該公正証書遺言が無効なら、遺留分減殺の調停は成立せず、調停の続行は遺言書の有効を前提とすることとなった。そこで公正証書遺言嘱託当時の被相続人Aの病状を知る必要性が生じたために、本照会申出を行った次第である。」

要するに、本来であれば、申立人は、相手方が公正証書遺言で遺産を独り占めにしたから、申立人の有利に調停を運ぶため、公正証書遺言が無効であるということを証明するために医師のカルテなどを取り寄せるなら、ご尤もですが・・そうではないんです。

通常は、遺産分割調停を求める申立人が@「法定相続分に基づいて遺産分割を求める。」というと相手方は、A自分が有利となる公正証書遺言などを提出し、仮にこれが有効であると、さらに申立人がB遺留分(親とか子どもの相続分は仮に遺言があってもその2分の1の相続分が遺留分として法律で保証されている)減殺請求をおこなうというのが「論理」です。

ところが、何を考えたか横浜の先生、先に遺留分減殺請求を申し立て、相手方が公正証書遺言を提出したので、そこで申立人が有利となるため遺言の無効を主張するため病院にカルテなどの提出を求めたはずなのですが、・・・しかし、3、照会を必要とする理由に書いてある通り「当該公正証書遺言が無効なら、遺留分減殺の調停は成立せず、調停の続行は遺言書の有効を前提とすることとなった。」というのです。

すなわち、頭がグラグラしますが、遺言が無効となり申立人が有利となるなら、自ら申し立てた遺留分減殺請求調停が成り立たず、逆に遺言が有効となって、申立人らが不利となるなら調停が続行できると言うのです。自分の乗っている梯子をのこぎりで切っているみたいです。

結局、自ら申し立てた調停を続行するためには、自ら不利益となる遺言の有効を証明することとなるためカルテの提出を求めているのです。訳が分かりませんね。

30年以上何らの問題なく、弁護士家業を継続してきたべテラン弁護士が「非論理的」法律構成を行いつつ病院にカルテを提出しろといって僅か240円の切手を貼った封筒を同封してきたので、顧問先の病院の院長先生、私に向かい「先生!弁護士会ってのは、どうなってるんだ」と連絡をよこしたのです。
そこで僕は、院長先生に対し『先生、先生の品格を欠くような言い分は、僕に任せてください!』と電話をして、ブログを書きました。(法律事務所の「やすかネタ」もご覧ください。)

人の相続に対して、概ね次のように考えます。
被相続人の死亡で相続が開始、@原則は法定相続分に基づいて分割する、A例外として遺言があるので、これにより遺産を分割する、これで不利益を受けるものは遺言が無効と争う、無効なら@の原則に戻り、B遺言が有効なとき、遺留分減殺請求をする。

横浜のセンセイ何を間違えたかというと「遺言があるらしい」との考え、そこからA遺言の有効無効を考えずにいきなりBを提起したことでグラグラしたんでしょうね。

仮に遺言があったとしても@から行くのが相続の「論理」であり、「法定相続分の請求には遺留分減殺請求も含まれる。」という常識(大は小を兼ねる)を知らなかったのでしょう。
posted by やすかね at 13:39| 千葉 ☀| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月09日

厳格な法の適用が大切である

先日、商工ファンドの大島健伸の逮捕から何を学ぶべきか、と書いたのですが、結局わが国では、法に違反して財産を隠匿しても「やり得」であることは明らかです。誰でも出来るものではないのですが、消費者に対して詐欺を働いて数十億円集め、財産を隠匿してしまえば懲役10年としても一年数億円の「稼ぎ」となります。

法律は、誰に対しても公平に厳格な適用が必要と考えますね。中国の思想家韓非子は、今から2200年前、基準としての法が徹底すれば国という機構が完備されると説いています。

我が家の愛犬は、家内の「ハウス」という命令に対し、ぐずぐずして中々ハウスに入ろうとしませんでした。これは家内の「ハウス」という命令には、ハウスに「入らなければならないハウス」と「入らなくてもよいハウス」がありますので、愛犬は命令と言う基準が必ずしも厳格に適用されるものでもないと言うことを知っているからです。

しかし、私が愛犬に対して、一度「ハウス!」と命令すれば、すぐハウスから出てもよい場合でも必ず一度は、ハウスに入ります。主人の命令は絶対守らせることになっているからです。

人間と犬を一緒にするなんてとお考えでしょうが、ルールがあってこれを適用する点では人間も犬も、考えようによっては植物だってルールを守っているのです。

ですから、社会のため、最大多数の最大の幸福のため定められた国家の法律であるルールは、決めた以上、厳格に適用すべきですし、しなければならないのです。

なにを言いたいのかと言いますと、わが国では裁判に負け、何百万円支払え、と判決が出ても裁判に勝った人が、負けた人の財産を探し出さなくては強制執行も出来ないのです。

破産した場合に、誰でも正直に自分の財産を報告するとは限りません。今回の大島健伸などは破産を予知して自分の役員報酬を月額2千万円から9千7百万円に引き上げ、雇われ人である他の取締役の報酬は月30万円ほどでした。その外自分の住宅は、商工ファンドが大島健伸の妻の会社から月額1535万円の家賃で借りていたものを、昨年10月から月額3150万円に引き上げています。ふざけた話です。

破産管財人が強制力を行使しても散逸させられた財産2670億円相当(多くの人の命と引換えされた財産)は中々回収できません。

この様に、隠された財産を黙ってみているわけにも行きませんので、私の関与した小さい事件ですが、先日、わが国の「優れた制度である」裁判所の財産開示請求という手続きをしました。
裁判に負けても判決で認められたお金を払わない人に対して裁判所が債務者を呼び出してどこに財産があるか、一応の強制力を使って調べる制度ですが、その実体たるや申し訳ないが馬鹿馬鹿しい手続きでした。

裁判所の作ってあるアンケート用紙のようなものに、現金・預金・有価証券・不動産・貸付金などを書いてもらうのですが、この内容について裏づけを取れるものではないのです。

結局、財産は隠してしまえば裁判所と雖も手出しが出来ないのです。私は国民総背番号制などという制度は賛成できないのですが、裁判という国家の営む法の適用は厳格にすべきであり、このルール適用に例外など許されないと考えますので、裁判所が正当な手続きで認めた判決の効力を保つためには、裁判所が債務者の背番号で全ての財産を検索できる制度をつくり、ここで明らかとなった債務者の財産を強制的に債権者に交付すべきです。また誰にも属していない財産は、全て国家に帰属させてもよいと考えます。

一所懸命働いて、税金を払い貯めた財産でしたら、誰にも隠す必要もないし、自分が悪いことをしてお金を支払えとの判決を受けたら潔く払えるだけ支払うべきと考えます。

昔は10両盗めば首が飛んだというように、財産犯でも「死刑」があったように大金を盗み不正を働いての蓄財は「死刑」にしたって良いのではないかと極論を吐きます。現在でも数百万円の借財で命を絶つ人もいるのですから、2670億円というメン玉の飛び出る財産隠匿は「死刑!」にしたって良いでしょう。

そういえばサラ金の武富士は、株式上場して1000億円以上儲けたのですが、武井親子は死んだときの相続税を免れるため、長男は香港に住所があるということにして脱税をしようとしました。さすが国税庁は長男への生前贈与と認定して1300億円を追徴課税したそうです。(宝島社「憚りながら」元後藤組組長後藤忠正著)

国家があるということは、政府が、日本の独立と治安を確保して、わが国民が安心して暮らせる社会を作るということですから、誰しも積極的に払いたくないでしょうが、税金を払うということは当然です。

ですから、本来支払うべき税金を払わないということは、逆に国家からの援助を受けていることとなります。税金を払っているからこそ、強盗とか経済犯罪から国家が守ってくれていることなのです。ここは基本中の基本ですが、あまり意識されていません。

そこで、私は宗教法人が税金を払わないということは、宗教団体が国家から補助金を貰っているということと同一であり、これは政教分離の原則に違反することと思っています。まして、この宗教法人の建物を使って選挙活動などしていることは民主主義の観点からも許されません。そう思いませんか?
posted by やすかね at 20:29| 千葉 ☔| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月02日

セカンド オピニオンの重要性

重大な医療問題とか弁護士への依頼という一生に一度あるかないかの重大問題については、医師とか弁護士という専門家に相談しても、もう一度別の専門家の意見を聞くと言うセカンド オピニオンが重要です。

元税理士さんが相談に見えまして、紹介されたばかりの顧問先の脱税に関与したと言うことで刑事告発されてしまいました。
弁護士に相談したところ、この弁護士は『私は戦う弁護士である。」と言い、刑事告発事件の着手金として150万円の支払をさせられました。
この弁護士、刑事告訴事件としては何もせず、起訴されてしまったことから、再度この弁護士に相談したところ、告発事件と被告事件では事件が異なると言うことで、さらに数十万円請求されました。
しかし、公判では、この弁護士「全て認めろ」と言って戦うこともなく有罪となり、執行猶予3年の判決を受けてしまいました。

この優秀な税理士さん、税務署関係の固定資産評価委員という重要な仕事もあり、有罪に納得できず、本人で控訴さらに最高裁まで争いましたが、所詮自白事件となってしまった第一審を覆すことはできませんでした。

結局、一年後刑が確定し、資格は剥奪となり、税理士業務も猶予期間が無事経過して「刑の言い渡しが効力を失うまで」登録ができないことになりました。

この状態で私の事務所に再生の問題で相談に訪れました。資格を剥奪されたことで経済的にも数千万円を超える損失を受けてしまったのです。

これまでの、事情を伺い、私が「それでは執行猶予の期間が経過するまで税理士業務ができませんね。」と言ったところ、この元税理士さん「先生それは違います。税理士はあと8年できません。私は何人もの弁護士に聞きました。執行猶予の期間が満了してから、税理士法でさらに5年間の資格制限があります。」というのです。

これにはびっくりしました。何人もの弁護士が、昔の択一試験レベルを理解せず、刑法の条文の意味を間違えているのです。刑法27条の「刑の言い渡しは、効力を失う。」という意味を知らないのです。

この元税理士さん、執行猶予の期間が経過してもさらに5年間登録ができないと誤解させられていたのです。私が何度も説明しても「何人もの弁護士に相談した」という「多数決の原理」でなかなかご理解していただけませんでした。

罪深いのは、刑事告発事件で何もしないで150万円「取った」K弁護士です。さらなる問題は、この悪徳K弁護士とその所属する弁護士です。これらの弁護士は、刑法の理解も満足にできないまま、この税理士の有資格者に対し、5年間の税理士業務ができないと誤解させ、一億円近い「売上」をパーにさせられるところでした。

危ない、危ないとんでもない弁護士達で、明らかな懲戒理由があります。そういう訳で自分も「もって他山の石とせよ」というような「事件」でした。ですから、セカンド オピニオンの重要性は僅かの相談料にはかえられませんね。
posted by やすかね at 10:36| 千葉 ☀| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月05日

法的権利の実現は難しいですね

自分では全く見る気もしないのですが,インターネットで自分の名前を隠したままで,誰彼なく名誉毀損の事実とか意見などを「自由」に発表できる「2ちゃんねる」というのがあるそうです。 

今日の新聞報道(朝日4月5日)では,この2ちゃんねるに対し損害賠償請求を行い,裁判所から支払い命令を受けても応じなかった西村博之氏に対して,この賠償金の一部について印税を支払う出版社からの回収に成功したそうです。
今日の報道は,当たり前である賠償金の回収,それも僅かの金額について成功したことが新聞で報道されるように,法治国家の現実は,勝利判決があっても,被告に対する強制執行ができないことが実に多くあります。

国家権力は,私人による自力救済を禁止する一方で,執行官という国家権力を行使して債務者に対する強制執行を行い,法に基づく権利(判決)が実現される手続きを採用しているのです。

ところが,この手続きの大前提として,被告である債務者の財産の所在が明らかでなければなりません。

多くの国民は,裁判なんて一生に一度あるかないかですが,弁護士など他人の権利義務の履行に関し,日常的に関与していますと,国家権力によって正当な権利があると認められても,この権利に対して義務のある債務者が実は,財産はあるものの隠匿(家族名義など)してしまって,執行官にもどうしようもないことは日常茶飯事です。

こうなってきますと,国家権力の権威は地に落ち,自力救済の動きが出てきます。必殺仕事人とか必殺仕置人さらには国際的にはゴルゴ13などが「正義」を実現するヒーローとなってきます。ヤクザとかマフィアなどが暗躍する下地ができてしまいます。

ですから,「法治国家」を標榜して国民の自力救済を禁止するのであれば,国は徹底して債務者の財産隠匿を許さない断固とした法的整備が必要です。
現在,強制執行が不十分なとき,平成16年から債権者は裁判所に債務者の「財産開示手続き」などを求めることもできますが,これとても不十分であり,債務者が自分の財産を隠匿しても証拠がありませんと,強制執行妨害などの刑事手続きにまで進行することは大変です。

とにかく,親族などに贈与するなどされた「隠匿財産」をどこまででも追及する手続きがあり,この権力の行使に対して「妨害」があった場合には,国家刑罰権を用いてでも債権者の正当な権利を確保しなければ,国家権力の権威は失墜します。

具体的にどの様な制度かといいますと,現在,民主党政権下で税金徴収のため国民総背番号制などの導入が検討されていますが,債権者の正当な請求に対し理由なく債務を履行しない債務者に対し,背番号を用いて,債務者の名前とか家族の名前で銀行預金など全てを明らかにさせる手続きを完備すべきでしょうし,また昔の不在地主ではありませんが,所在の明らかでない人間の預金など全て国庫に帰属させてもいいのではないでしょうか。

債務者の資産調査にしても,その収入から正当な支出を算出し,親族などへの贈与などは,相当期間経過後でも否認することが必要です。本来他人に対して支払い義務あるものが,身内に贈与などすることはもってのほかだからです。
そうすれば,裁判の権威も増大しますし,何よりも国民が「約束は守らなければならない。」と肝に銘ずることになるでしょう。

正しくない方法で蓄財しても,これが自分の財産的権利であるなどと主張する「自由」はないことをはっきりと明言し,最後は刑罰権(執行妨害罪)をもってしても法で認めた権利の確保を図らなければならないと思います。

そうすることにより,最終的には,法に違反して高利貸しを行って莫大な資産を蓄えた輩とか「金融デリバティブ」商品などという訳の分からないものを「発明」して大儲けをした連中を許さない,という社会的合意もできるのではないでしょうか。「詐欺」を働いたような人間が,死ぬ(死後は家族)まで,お天道様の下を闊歩する時代が続くのはおかしいとは思いませんか。

誰ですかね,言っていましたが「日銀は一万円札しか印刷できないが,ゴルフ預託金などは,一度に500万円1000万円でも自由に印刷できた。」のです。
posted by やすかね at 16:02| 千葉 🌁| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月22日

刑事裁判の「発展」

先日、初めての裁判員裁判の弁護人を務めました。そこで、今回は、わが国の刑事裁判の概略をご説明し、その後の議論をスムースに進めたいと考えています。しばらくお付き合いください。

昔はですね、と言うとあたかも見てきたようなことなのですが・・「皆の者、面を上げーい!」と御奉行の刑事裁判が始まりました。舞台の正面には御奉行が座り、両端に書記係りと、6尺棒をもった「木っ端役人」が二人ほど控えて警備を任されています。
お白砂のムシロの上には、被告人と、その両となりには岡っ引がおり、その外、証人、被害者など一同が控えています。

このとき御奉行は、検察官と裁判官の一人二役で(時代劇の中では、遠山の金さんは、証人の役割もしました。)傍らには落語に出てくる町役(訴訟を担当した300代言?)をしている大家もいたかもしれません。

裁判の目的は、社会の治安維持を最優先にして御奉行が職権主義的に(取調べの進行は、お奉行の独断専行)しかも糾問的(一方的に質問し、疑いがあれば怒鳴りもする)に取調べを進めます。

証拠の提出も採用もその証明力(証人の発言内容の信憑性)の判断も全て御奉行の胸先三寸に係る裁判です。
この様な裁判を考えたとき、裁判の結果は、多くの冤罪を生んだことでしょうし、自白がなければ有罪とできないということになりますと、「私はやっていません。」などと白を切っている被告人には拷問も加えることになります。(実際は、拷問は証拠上あきらかであるのに白をきっているばあいであった、ともいわれています。)

この様な御奉行が職権主義的に進める前近代的裁判では、様々な問題があります。特に訴追官とこれを判断する裁判官が同一人では、個人的偏見が入り「正しい」裁判だけでなく、「正しいと信頼させる裁判」も実現しませんので、時代の進歩(明治の始まり)と共に行われた裁判の民主化は、先ず、裁判官の役割から検察官の役割を分離しました。

しかし、刑事裁判の基本思想が社会の秩序維持であり、検察官も裁判官もこの基本思想に基づいて裁判を運営しますから、刑事裁判は裁判官の主導的立場で進行することに変更はありませんし、検察官と弁護人も当然、対等の立場にはありません。
仮に弁護人が被告人に黙秘などさせようものなら、弁護人も被告人と同罪とまでは行きませんが、処分されたでしょうね。(ドイツではどうもそれに近いようです。)

また、裁判に必要な一件書類は、起訴と同時に全て裁判に提出されます。仮に検察官の提出した証拠に不足があると考えたとき、裁判官は検察官に有力証拠の提出を命令します。これを職権探査主義とも言います。この裁判が戦前までの刑事裁判の基本スタイルと考えてよいと思います。

しかし、裁判官が「社会の治安維持を守るのは、俺たちだ。」などと使命感を燃やしますと、その判断は偏向し、証拠を第三者として冷静に見ることができなくなりますので、公正な裁判を実現するためには、裁判官から「当事者的立場」を徹底的に排除し、民事裁判のように「利害関係のない第三者」として証拠の評価をさせる「当事者主義的訴訟構造」を採用しています。

また検察官が起訴をする際には、証拠を一緒に提出させることなく(起訴状一本主義)、裁判が始まってから検察官に提出を求め、また弁護人の反対尋問を保障していない供述証拠は、原則として証拠能力を認めない(伝聞証拠排除の原則)のが建前です。

さらに裁判の基本原則として「疑わしきは被告人の有利に」という証拠の評価原則(民事では、原告被告のいずれの証拠が優勢かで判決をする建前ですが、現実の裁判では民事と刑事が逆になっている)が採用され、被告人が犯人であるとするには合理的疑いが残る場合には被告人を無罪とするのが、これまた原則です。

21世紀の現代では、当然刑事訴訟の原則が「当事者主義」「黙秘権保障」「疑わしきは被告人の有利に」などが「当然」と思われますが、現実はそうではありません。
職業的裁判官の多くは、ご幼少のころからお勉強が大好きで、お育ちも良く、お友達と殴りあいの喧嘩などしてませんし、大人になってからも一般の社会人が行う「お遊び」もいたしませんから、普通の社会人から見ると社会の常識から外れています。

今、この瞬間も、同じ時代に生きているから、裁判官も私たちと同じ考えをしているだろうなどと誤解される人も多いでしょうが、裁判官の周りにいる人たちは、お上品な人たちばかりですし、官舎に住んで自宅と裁判所をお車で送迎されていますから、現実の社会からは相当はなれた生活をしているのです。

弁護士も一般社会の人々より多少「豊かな生活」をしているでしょうが、それでも弁護士と裁判官では周りの環境がまったく異なっているのです。

というような訳でして、今度、「国民の健全な常識」を裁判に反映させようとして裁判員裁判制度を採用したのです。逆に言いますと、今の社会は「裁判官は常識はずれが多い」と考えているのでしょうね。

この裁判員制度のポイントは、証拠から行う有罪無罪の判断という事実認定(これだけやるのが陪審裁判)とさらに一定の要件で量刑判断(懲役〇〇年)まで行うのが、裁判員裁判です。国論を二分しての制度導入ですが、これを採用するにも、採用後も莫大な費用をかけています。
基本的には、今のグローバル社会の中で、莫大な社会資本を導入して、また優秀な人たちをこの様な制度に駆り立て、国内で多大なエネルギーを消費していて、わが国はこれからどうなると考えているのでしょうか。

私が始めて体験した裁判員裁判での感想は、正に「こんな詰まらないことに多大なエネルギーを費やしているほど、わが国は余裕があるのであろうか、こんなことをしていると日本は、本当に沈没してしまうのではないか。」ということです。

話がそれますが、大人は、子どもたちに我慢を教えることもできず、子どもたちは精神的鍛錬も修行もせず、肉体の成長と共に自らの欲望の赴くまま行動し、20歳30歳では未だに一人前の社会人として成熟できていません。

一所懸命な先生もいる中で、国は学校の先生に雑用ばかりを強制し、教育の真の目的も蔑ろにされ、社会を考えない子どもが増加するならば、将来の日本はどうなるのでしょうか。
裁判員裁判制度の採用も、それほど余裕のない今のわが国を考えると大いに疑問が湧いてきます。
教育と司法制度改革は、明治政府が先進国に追いつくために真っ先に行ったものではないでしょうか。
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2010年02月21日

裁判員裁判で検察官の役割を考える

先日「最後は結果が大事さ!裁判員制度の無駄」と書きました。この裁判では被告人の違法行為(結果と行為の違法性)が、窃盗未遂(実害なし)と被害者に発生した結果(仮に被告人の行為が危険な行為ではあるとしても)は、4日間の傷害に過ぎませんでした。

それにもかかわらず、この事件に対し50名を越える裁判員候補者に対する呼び出しと説明、さらには裁判員の辞退者に対して、一人一人裁判官・検察官・弁護人らが面接をして6名の裁判員(2名の補充)を選任したほか、公判に先立つ半年間に及ぶ公判整理手続きと4日間の集中審理(裁判官3名裁判員補充を含め8名検察官4名弁護人2名その他警察・拘置所職員・裁判所職員など)評議と判決期日がありました。
そして最後に懲役4年半の実刑(受刑者一人に対し一年間に必要となる税金は千万円を超えるであろう)が言い渡されました。

しかし、結果(実害はたった、4日間の傷害だけ)を見れば実につまらない事件にこれほどの手間ひまをかけてやるべき事件であったであろうか、と大いに疑問を感ずる裁判員裁判でした。そこで、いろいろ考えますと、根本的にもっと検察官の職務の重要性に目を向ける必要があるということです。今日はこれを検討してみます。

まず、裁判員裁判制度は、国民の目線での刑事裁判の実現でしょうが、もっと遡りますと、刑事司法の問題は、社会としてどの程度の違法行為を刑法違反として刑罰を加えてでも抑圧し、国民の安全・安心とのバランスを取るかと言うことです。

そして刑事司法と基本的人権のバランスを考えるときは、犯人は絶対処罰しようと考える「犯人必罰思想」と、冤罪は許さないと考える「人権保障の思想」の「対決」があります。

どういうことかと言いますと犯人必罰思想では、人間のすることは過ちがつきものですから、いくら証拠を集めても最後はどうしても真実がわからないときがあります。しかし、この考え方は社会の治安を大事にしますから、多少怪しいなら処罰しておこうと考えがちです。
結局警察国家となり、個人の基本的人権が国家権力によって侵害される冤罪が多くなります。

これに対して、人権保障を重要と考えますと論理的に「疑わしくは被告人の権利」と考えますから、被告人はどうも怪しいが証拠が不十分であるから釈放しようとなり、結局真犯人でも証拠不十分で社会の中で、すなわち私たちの隣で犯罪者である真犯人が生活することになりますから、治安は悪くなり、国民の一人一人が自分の安全を自分で守らなければならないことになります。

ですから、「疑わしきは被告人の利益に」と奇麗事を言うことは、社会が危険なものとなりますが、この社会の方が、警察国家より自由が保障される「良い社会」であり、基本的人権が保障される、と考え、これが現代の「自由社会」なのです。
すなわち現在の社会は、この人権保障の社会ですから、犯罪者と隣りあわせで生活することが「当たり前」の社会です。極論すれば自分の安全は自分で守る必要があります。

裁判員裁判は、現在の後者の考え方の社会の中で、検察官が刑罰を加えてでも処罰すべきであると考え、起訴された被告人が有罪であるか無罪であるかの判断を職業的裁判官でなく、「同胞」の判断に委ねる制度と言うことです。

しかし、もう少し社会のことを(深く)考えますと、社会(国家)の構成員の負担する「税金」によって社会全体が維持運営され、そのなかで基本的人権と社会の治安のバランスを考えますから、本来であれば税金の無駄のない社会が最初に存在し、そのなかでさらに刑事司法制度を考える必要があると思います。

この様に考えてきますと、裁判員裁判を考える際に忘れてはならないことが今まで以上に検察官の仕事の重要性を考えなければならないということです。要するに検察官はいかにして税金を節約しつつ、社会の治安を考えるかということが、裁判員制度のなかったときに比べ、格段に重要となってきたといえます。分かりや易くいいますと、検察官は当該事件が果たして裁判員裁判対象事件と扱ってよいものか否か、今まで以上により慎重判断しなければならなくなります。

例えば、アメリカなどでは検察官も公選されますが、この選挙での選出をする理由とすれば、刑事司法の運営が警察・検察官・裁判官・弁護士・刑務所と、人間社会の必要悪の運営のために、計り知れない人間の労力(税金投入)が必要とされ、その出発点に検察官がその重要な役割を演じているから、検察官を国民の意思で選出しようと考えていると理解できるのです。

この様な視点で裁判員裁判制度を考えますと、このカネのかかる裁判員制度のレールにのせる検察官の職務もこれまで以上に慎重な判断が必要と思われます。本件は、窃盗未遂と傷害罪で起訴すれば、簡単に懲役2年程度で済み税金も裁判員の労力も、また裁判官も検察官もさらには弁護人も一人でしかも数ヶ月で事件が終了したでしょうに!!と強く感じました
posted by やすかね at 01:06| 千葉 ☀| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月19日

弁護士のプライド

プライドなんてものは有害でしかないと最近考えるのですが、この有害なことを敢えて主張します。感情論で論理を語ると見苦しい文章となりそうなので、悪しからず、ご注意ください。

昨日(18日)、平成22年第1回議会の前の各会派に対する「議案説明」のときです。道路用地の土地取得について土木部長は「調停を提起するので、各会派に対してご説明したい。」とのことでした。

事情説明を受け、私は直ちに「こんな調停は、無駄だから止めたほうが良い。」と強く言ったところ、今日本会議終了後、部長以下職員が私の「説得」に来ました。

どういう事かといいますと、今回は市道整備に関する土地取得の問題です。これまで莫大な税金と労力を投下しながら、未だに買収ができない土地があり、重要な幹線道路が未だ開通でないでいるのです。その原因の一つが今回の「共有地」問題です。

買収の対象となる本件土地は、その所有者(正確に言うと「表題部」の記載)が「何某他7名」と登記されているものの、この「他7名」を登記簿などから全く特定することができないのです。そもそも「特定でいない人たちの相続人」自体、概念矛盾といいますか、自己矛盾です。これでどうやって「交渉」というか「調停」をしようというのでしょうか、皆目検討もつきません。

本来であればこの「他7名」は登記簿上に「何の何某 持分何分の何」と共有者を特定し、万人(大げさですが、日本国が世界中の人に対してです。)に対しての所有権を公示して不動産取引の安全を確保しているのです。

しかし、昔の土地台帳と言うのは、その目的が明治初期の地租改正でしょうね、税金を徴収する目的で編綴(ヘンテツ)され、土地台帳には「何某他何名」と記載され、その他に共同人名簿が整備されていたのですが、土地台帳が昭和25年税務署から法務局に移管される際、この「他何名」と記載されていた共同人名簿が法務局に移管されなかったため不動産登記上「他何名」を特定することができなくなってしまったのです。

要するに、権利者は他にいたのであるが、それが誰かは分からない、「特定できない」という登記制度のエアポケットみたいなもので、これは新たに法律を作らなければどうにもならないでしょう、と言うような問題です。

この様な問題はこれまで数え切れないほどの実例もあり、若干専門的な話しとなりますが、今回法務局では「不動産登記法の100条(現在の74条)の判決があれば・・登記ができる。」と説明したようですが、これはあくまで「判決」であり、しかも証拠に基づいて下された判決であり、裁判所で行われる即決和解、調停、さらには判決であっても欠席判決、自白事件のでは登記をすることはできないのです。

ですから、担当者が法務局に問い合わせをしたといっても、当事者の合意でできる「調停でよい」とは絶対説明していないでしょう。

仮に無関係かもしれない人々と調停で「合意」したことが「判決」と同様であるなら、「できレース」を登記所が認めてしまうことになるからです。今回の顧問弁護士の「ご(誤?)回答」もこのレベルのことです。

どうしてかと言いますと本件は、ことは万人に対する絶対的権利である「所有権」なのです。登記制度と言うのは、不動産取引の安全のため国で管理する公示制度であり、特に所有権は、契約自由の原則と共に私法に関する根本法規に関することですから、原理原則から考える必要があるのです。

また「調停が確定判決と同様の効力がある」といっても、その効力は「強制執行」に関してということを強調しているに過ぎず、当事者の主張と証拠に基づいて判決がなされる判決と当事者の単なる合意で作られる調停調書とは決定的違いがあります。

顧問の先生は私に『先生、役所が調停をやると言っているのに妨害しないで欲しい、もし調停で登記ができたら、先生のバッチに傷がつくから。』と問答無用の返答をしてきたのです。しかし、弁護士が顧問弁護士の「回答」の問題点を指摘して、「回答をもう一度検討してください。」と丁寧に話そうとしたところ、上から目線で『先生のバッチに傷がつく』と言ってきたのです。この様な言い方は「皆がそう考えています」と同じ「議論」です。

そこで、あえて言いますと、弁護士が法的見解を間違えると「弁護士の品位を汚した」と言うことで懲戒理由となるのです。顧問先に対しての「回答」でも間違っていれば立派な懲戒理由なのです。それを棚上げして私は「バッチに傷がつく」と言われたものですから、断然ファイトが沸いてきたのです。

(後日談)執行部のこの議案については、僕が2大会派である市長与党の市民クラブと自民党の有力者に根回しなどしたことから、議会の途中で議案が撤回されました。議員一人で執行部の議案を撤回させ、無駄なお金がかからなくなったことは大いに喜ぶべきことですし、少し自慢しますかね。
posted by やすかね at 20:03| 千葉 ☔| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月13日

最後は結果が大事さ!裁判員制度の無駄

「人間がある対象を認識することで、はじめてその対象は実在のものとして出現する。」逆に言えば「人間は、自分のもつ認識方法でしか、対象を認識できない。」などというと、『なんだ、お前は観念論者か。』とお叱りをうけそうであるが 、そもそも私たちは、客観的存在としての「真実」をいかなる関係で議論していることになるのでしょうか。

世界中の人間を動物を地球を対象にして「こと」を論じているのでしょうか。そうではないでしょう。必ず自分の近くにいる、自分に関係している「その人を」対象にして「こと」を論じていると思います。そうしますと、客観世界は本当は主観的なものです。

我が家の愛犬は、主人の存在と食べ物と居心地のよいソファーしか自分の認識対象としていないでしょう。主人が大学教授だろうが、弁護士であろうが、窃盗犯人であろうが、これはまったく関係のないことでしょう。

何時でしたかね、感動的な場面に出っくわしたことがありました。そこは、問屋町の交差点近くで、リヤカーに自転車をつないで必死に引っ張っている、ぼろやと言ったら叱られますかね、とにかくダンボールとか古新聞などをリヤカーの荷台に山のように積んで運ぶ人の先に柴犬の雑種と思われる中型犬が、頭を前にぐっと突き出し、4本の足を踏ん張りながら、リヤカーにつながれ、自分の首に巻かれたロープを一生懸命引っ張っていました。
主人は自転車を愛犬はロープを共に力いっぱい「仕事」をするさまは、10年以上昔のことですが、忘れられない場面です。

僕は、この犬と主人が必死に生きている現場に居合わせ、しばし見とれてしまいました。人間の幸せとか、愛犬のしあわせとか言うものは、腹いっぱい食えるダイエット・フードがあったり、エアコンの効いた部屋のソファーで寝そべり、肥満体質で短い命をつないでいることではないのではないか、自分の見える世界の中で、力を合わせ必死に生きているのが、充実した時間のすごし方ではないであろうか、と思います。

今日は、間もなく配達される新聞に載っているであろう、刑事司法の問題点、罪と罰などという「高尚」なことを論じつつ、裁判員裁判での事実認定の問題点について書こうと思い「客観的真実とはなにか」などと、パソコンの前に早朝4時前に座ったのですが、導入部分を色々考えているうちに、人間の認識がどうあるべきか、現実の裁判の報告などと言うことが実につまらないものであることが判明してしまい、脱線してしまいました。ということです、しばしお付き合いを、裁判員裁判については後日報告します。

と言う事・・ど・ど・どういうことかといいますと刑法とか刑事訴訟法などという「精緻を極める法制度」といっても、今日の新聞で報道されているでしょうが、結局ユンボは盗まれず、被害者は4日間の治療を要する傷害を負っただけの「結果」しか存在しないにもかかわらず、実に膨大な手続きと多くの人の労力を費やす裁判員裁判があったと言うことです。

「国民の目線で、貴方の言葉で裁判を」などという心地よい言葉で、何百人もの裁判員予定者に通知を送り、回答を求め、アンケートに記入させ、これを「厳格な手続き」で6人に絞り(さらに2人の予備裁判員も)裁判官3人、検事4人、弁護人2人で約半年に及ぶ準備手続きのあと、連日開廷(8,9,10,12日)した結果が、4日間の怪我と懲役4年半の実刑です。(確かに犯罪行為は単純に結果だけでなく行為の違法性も問われるのですが、そうしますと被告人と主犯の関係、さらには被害者の行動などの検討が必要となりますので、とりあえず被害者の傷害を取り上げてあります。)

犯人を一年刑務所に収容すると少なくとも数千万円の国費が必要でしょう。その前に裁判手続きに関連する警察の捜査、さらには裁判員裁判での費用など考えると頭が痛くなるほどであるにもかかわらず、「全体の結果」は窃盗未遂で、唯一の被害者とも言える人の怪我は4日間でした。あーあー馬鹿馬鹿しい。

犯罪と刑罰のバランスを考えたとき、起訴独占主義(犯罪と結果、証拠、犯人の状況、社会に与える影響などを考え、この犯人を正式の裁判にかけるか、釈放するか、罰金とするかなど諸般の状況を考え、判断する権限を検察官という組織に任せる制度)と言う検察官の職務権限とその後の膨大な労力をどうしたら良いのでしょうか。膨大な無駄遣い以外の何ものでもありません。

いかなる精緻な法制度と議論を展開したとしても、その結果が4日間の怪我と懲役4年半、は一体ナンナンでしょうね。所詮人間の認識と合理的判断の結果はこれほどの不合理でした。ということです。おしまい。
posted by やすかね at 05:51| 千葉 ☁| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月10日

わが国の通訳事件の実態

刑事事件と言うと厳格な手続きが行われるというのが常識ですが、現実の裁判では相当いい加減なのもあります。

 先月のことです。フィリピン女性の出入国違反の事件がありました。11月26日の裁判と言うことで、起訴状などが11月13日FAXされたと同時に通訳人はフィリピンに帰っており、20日にならないと帰国しないということでした。元々当番事件で、直前に入ったものですから、困ったなと思いました。

そこで20日になって事務所から通訳人の携帯に連絡(通訳人の携帯は海外でも受信できるとの注が入っていますが、国政電話の料金は当然弁護人もちです。)を入れ、21日(土)の接見をお願いしたところ、彼女、大丈夫と言うので今度は、僕の携帯から電話を入れたところ、通訳人は「いま福岡にいて・ボランティア」がどうのこうのと関係のない話をしているので「余分なことは良いですから」と遮って「21日が駄目なら、では、接見は何時出来るのですか。」といったところ25日がどうのこうのと勝手なことを言っていました。

やむなく24日午後司法支援センターに通訳人の候補者リストを貰うことにしましたが、通訳人の普通の電話番号を見ますと都内とか埼玉などでしたので、今日の今日とかは都合が付かないであろうと思いました。

ところで、接見前の記録閲覧で、被告人は来日二回目で今回は12年前の来日で、仕事もスナックのホステスなどでした。
外国人でも単純労働とか3Kの仕事ですと日本語を話す機会が少ないので12年間日本で生活しても日本語は中々上達しませんが、日本人の男性客相手にしてのホステスですと日本語が上手に出来なければ稼ぐことも出来ません。ですから、私は被告人の日本語能力を信頼して、通訳人なしでも接見できると考えました。

県警本部に接見に言ってみますと、被告人は十分に日本語が話せ、これならフィリピンに帰国しても十分通訳としてガイドなども出来ると思いました。

被告人の権利を守るため通訳人をつけるのですから、弁護人が通訳人なしで接見をするなら、弁護人としても通訳人がいる以上にきちんと話が出来なければ問題となりかねませんから、私は調書に記載されていない事実関係の聴取に心がけました。

被告人の話によりますと、フィリピンに子どもがいる、子どもの父親は、被告人が妊娠6ヶ月のときピストルで撃ち殺されてしまった。彼と知り合ったのはジプニーの中であったなどなどです。

今回のパスポートに張られている写真は本人のものらしく、記載されている名前が被告人の名前と類似していることからこの点に触れると、その名前は自分の姉である(信じられませんが、検察官の調書にも記載なし)ことなどが判明しました。当然パスポートは名前が違うもののいわゆる「偽造パスポート」とは違います。(この点について検察官には認識がなく、証拠もないのに法廷で「偽造だ」ということで私が異議を述べると撤回した。)

公判前日、通訳人から「弁論要旨をファクスしてくれないか。」と連絡がありましたが、お断りしたところ今度は裁判所から「通訳人に弁論要旨をファクスして頂けないか」とご連絡がありました。
私は、「言葉が適当ではないが、通訳人は嘘をつくし信用できないから他の人に代えたらどうか」と意見を言いましたが、担当書記官は『せっかく探した通訳人』と言うことで通訳人は代えることが出来ませんでした。

公判当日です。通訳人は私の顔を見るとやけに頭を下げるのですが、私は出来る限り無視することにしました。人定質問(被告人の本人であることの確認手続き)になりました。2部S裁判官から「被告人は、〇〇と言う名前と××と言う名前の両方をつかっていたか。」との質問がありました。
被告人はタガログ語で「いいえ」と答えたらしいのですが、通訳人が「はい」と通訳したので、被告人はすぐ、私の顔を見て「違う」ことを告げました。

私が「裁判長、今通訳人はハイと答えたが、被告人は違っているといっている。」と言うとS裁判官は被告人と僕の呼吸が分からなかったらしく「弁護人の言っていることが分かりません。」と言うので私は、立ち上がり「いまの裁判官の質問では、被告人は二つの名前を使っていたのかとの質問だったと思うが、被告人はイイエと答えたのに対し通訳人はハイと通訳している」といいますとS裁判官は高圧的に「弁護人座ってください。」と言ってきました。

この裁判官、他の事件でのこと検察官の発言に私が座ったままちょっと反論したところ「弁護人!立って話してください!」と言った様にかなり権威主義的なところが感じられる裁判官です。

それはともかく、この裁判では私が被告人に質問し、被告人も日本語で話したことから、通訳人の仕事量は相当少ないようでした。(因みに通訳人の費用30分以内8千円、以後10分毎に千円、遠距離移動交通費と別に4千円の日当が支給される。昔は月に100万円以上稼ぐ通訳人もいた。)

通常の通訳事件ですと、同じことを日本語とタガログ語で二回言いますし、特に通訳人がいい加減ですと時間は二倍以上かかってしまいます。それにも拘らず、今回の通訳事件を当初の予定時間としては30分でやろうというのです。

ですから、審理の内容も全く形式的なことになり、被告人が日本に滞在した期間の長短のみで論告と判決がなされるといっても過言ではありません。
ですから私が、接見で調書になかったことを聞き、これを被告人質問と弁論要旨でやるだけでも時間が足りなくなります。

ともかく、被告人は私の弁論を聞いていて、特に2歳のときから12年間顔を見ていない娘のことに触れると涙を流していました。

最後にS裁判官が被告人に対し「今、弁護人は『異国』と言う言葉を使いましたが、その意味が分かりますか。」等と嫌みなことを聞いていました。

私は思わず「裁判長!日本人だって冒頭陳述、素因変更、検察官面前調書、執行猶予などの日本語の意味分からない人が沢山いるぞ!」と怒鳴りたい衝動に駆られましたが、どこか外で仕返しをする機会もあろうからと、その場は「丸く治めました。」私も最近人間が丸くなったのでしょうかね。ヒヒヒ
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2009年11月02日

苦悩する裁判官

もう20年近く前のことです。中学校の校長先生をしていた70歳を過ぎていたでしょうかね。この、元校長センセイ土地を購入したのですが、その時お隣の吉野さん、すでに家の新築工事をしていました。

元校長センセイ、公図を見たところ、土地の形が少し違うようだということで、コピーされた公図を物差しで「計った」ところ、数ミリ違ってたんですね。『この公図は200分の一とか250分の一の縮尺だから、買った土地の入り口は4メートルあるはずだ、そうすれば私の買った旗さおの土地の入り口はもっと広いし、前のブロックも50センチはこちらに食い込んでいる。』と「考えた」ようです。

早速お隣に乗り込んで行って『お宅様の土地は、私の土地に食い込んでいる。新築しているようですが、直ぐ中止してもらいたい。公図によると、お宅様の新築中の家は、ここから、ここまで私の土地に食い込んでいるから、家の基礎を取り壊し、引き渡してください。』と丁寧に、しかもとても強烈な申し入れをしたようです。

お隣は困りましたね。そりぁー困りますよね。長い間生活してきた土地で、お金もできたし、やっと家が建てられると喜び勇んで新築工事を始めたところ、最近となりの土地をかった爺さんが、言葉は丁寧ですが、その言う内容は『工事を中止しろ、取り壊して土地の一部を引き渡せ。』ですからね。

困り果てた、吉野さん、早速弁護士に相談することにしました。『先生、新築を止めたほうが良いですか、どうしたら良いんでしょう。』ととても深刻です。
吉野さんからは、最近お隣が土地を買った、元校長先生、測量はしていない、ブロックの境界は数十年経過している。祖父よりも前からここに家があった。などの事情を聞きましたので、『良いんじゃないの、無視して家を建てなさいよ。』また『正式に裁判など起こしてきたら、また相談に来てください。』とアドバイスして終わりました。

その後、すっかり相談されたことを忘れていますと、『先生、裁判所から訴状が来ました。』との事です。
訴状を拝見しますと、手書きの訴状で書いてあることは全く理解できません。私の頭が悪いのではなく、理屈というか相手の言わんとすることがわからないのです。とりあえず相手の請求は全て認めない、事実関係もすべて認めない、と答弁書を書いて裁判所に行きました。

裁判長も訴状の内容が理解できず困ってしまい、法廷ではなく「和解」ということで、別室での話し合いになりました。
まず、裁判長、元校長センセイの話を聞きながら、一つ一つ事実関係を聞くのですが、さっぱり要を得ません。また「話し合い」ですからお互いに相手方の言い分を聞いてから自分の意見を述べるのですが、全く話が通じません。議論がかみ合わないのです。

相手は、元校長先生、こちらが『原告は何時土地を購入したのか、測量をしたのか、面積はどうなっているか』などと話しているときは、こちらの話をじっと黙って聞いているのです。

こちらが原告に質問をしているときは黙って聞いていますので、質問に答えるかな、とおもって質問を止めますと、元校長センセイやおら話し始めます。しかし、話の内容はこちらの質問には全く答えず、『ぶつぶつ』と訳の分からないことを言っています。

先ほど来、黙って僕の話を聞いているから『多少分かっているのかな』などと相手を信頼していたのに、元校長センセイ、話し始めると、実はこちらの話を全く聞いておらず、こちらが話しているときは『相手様のお話になる順番だから、黙って聞いているべきである。』と考えていたのですね。こちらの質問などあってもそれには一切関係なく『やっと自分の話す順番がきた。』とばかり、べらべらと訳の分からないことを話すのです。

相手の言うことは相手のことだから私には関係ない、こんどは自分のしゃべる順番だ、これは自分の「権利」だということでしょうね。

裁判長もすっかり困り、元校長センセイの言い分を整理するだけも大汗をかいています。裁判長、訴訟とは何かから説明を始めるのですが、裁判長が話を止めると、裁判長の話と関係なく、また自分の話を始めるということでたちまち時間がなくなります。
やむなく裁判長『では、次回までに、これこれの点を整理してきてください。』と校長先生に『宿題』をだすと、さすが元先生「宿題」の意味は判るらしく、少し納得して帰りました。

「人が話しているときは、自分は話してはいけない」という学校で使っていたルールの形式的意味は、よく理解しているのですが、なぜそのルールがあるのか、という点は全くわかっていないのですね。また学校で使っていた「宿題」という意味も理解しているらしく、毎回裁判長から「宿題」をだされればそれには答えてくる「几帳面」さは、持ち合わせていました。

そこで、裁判長なんとか訴状の形式は整えさせて、原告の主張を整理して『原告の請求を棄却する。』との判決はできました。
この程度の整理をしておかないと、仮に原告から控訴でもされた場合には、裁判長が高裁から「お叱り」を受けるのです。「お叱り」といっても直接のお叱りではなく、原審(第一審のこと)は下手な訴訟指揮(主張整理、つまり当事者(原告・被告)の言い分がまとめられていないで、下手な判決文を書いたこと)をしていると高裁の裁判から判断された場合には、その裁判官の出世に大きな影響が出るのです。

そういうことで、日本の裁判は、弁護士に依頼しないでやる「本人訴訟」も許されていますので、実は大変な、落語にでも出そうな、実にばかばかしい「裁判」もあるのです。こんどはまじめに落語の創作でもやって見ますかね。絶ッ校長、絶ッコウチョウ。


posted by やすかね at 06:47| 千葉 ☔| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする