2007年09月19日

「日本人」の言葉の乱れ

自分が年をとったのですかね。若者の使う変な日本語がずいぶんと気になっていたのですが、井上ひさし氏がテレビで『言葉の乱れは気にならない、言葉は使う人によりすべて異なる。』というようなことを話していました。

まさに言葉は「創造の連続」です。また放送大学でも方言としての「東京弁」はあるが、「標準語」というような言葉も認めていないようでもありました。

なにはともあれ、私たちは言葉なくして考えることもできませんが、頭のなかで一人考える、人と会話をする、電話をする、文章を書く、それぞれの場面で自分の使っている言葉が異なっていることに気がつきます。

一人考えてある「場面」がでたり、日本語であったりしますが、人と会話をするときになりますと、「そこまで突き詰めて考えているのか」「結論を聞いているのに、何で先に結論が出てこないのか」「相手のことを考えていないな」「自慢話か」「あっ、人のせいにしている」などなど様々な感情が入り混じりながら、相手の話を聞いています。

まさに言葉が生きていることが分かります。目の前の人を見ながらの話ですから、相手の顔色、服装、身振り手振りなど「雑念」も入ってきますので、相手の言葉に全集中しているものでもありません。

しかし、これが電話となりますと情報は相手の声だけです。間合い、イントネーション、声の大きさ、発音の明瞭さなどですが、そのほかの「雑念」が入りませんので会話より相手方の感情がストレートに伝わってくるようです。

この点は相手方にとっても同様の状況ですので、私は電話では何時も注意を怠ってはいないつもりですが、時々話が終わった、と思う瞬間受話器を置いてしまい、相手方に失礼なことをしてしまった、と反省するときもあります。最後には「どーも、どーも、どーも」「はい、はい、はい、」などと何も同じ言葉を繰り返す方もいらっしゃいますが、受話器を置くときに十分の注意を払っているのですね。

最後に書く文章ですが、これは自分の考えていることを周りの環境を無視して一方的に話すのですから「文は人なり」といわれても万全の注意を払うことはできず、人前で裸になると同様大変なことです。何より、文章が流れなければ、決してそれ以下は読んでいただけません。

受験生の頃は他の受験生から質問を受け、これに的確に答えられる人は極めて少数ですし、自分の答案を知り合いに見せることは、自分の頭の中が見透かされるような「危機感」を感じ相当の度胸が必要でした。

しかし、色々議論をして始めてわかるのですが、実際は他の受験生も「正しい物差し」を持っているものでもありませんので、自分の書いたものを読ませても「書いた人も読む人もお互いさっぱりわからない」状況でした。

面白いのが、人の文章を読んで「よくわからない」と言いますと書いた当の本人は「なぜ分からないのか」というように訝っています。この様な人は、自分の文章を読んで他人が理解できないところは、自分の頭の中で知らないうちに「添削」しながら読んでいるのです。

会話でも同じような事が毎日あります。証人尋問などになっても『この人は本当に日本人なんであろうか、全く日本語が分かっていない』と思うことがしばしばあります。単語とすれば日本語ですが、論理的におかしいのは勿論、単語自体もつながっていないのが日常茶飯事です。

井上ひさし氏が『日本語の乱れが気にならない』と言うことは恐らく『ちがくない』などという程度の単語についてだと考えますね。「日本語を話せない沢山の日本人は『日本語のみだれ』の範疇に入っていない」と理解して納得しておきましょう。最後まで読んでいただいてありがとう!
posted by やすかね at 06:38| 千葉 ☁| 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする