2007年06月15日

民主主義と公民

本日付毎日新聞では、『根本から再考する憲法の役割』と題し、舛添要一氏(参議院自民党政審会長)が「義務より権利に本質」、瀧井一博氏(兵庫県立大学教授)「権力構築の面も大切」と大塚英志氏(評論家・まんが原作者)が「公民の育成が急務」と題し論じていました。

舛添と言えば自民党の「論客」と考え、私自身注意して読もうとしたのですが、何ら問題はありませんでした。自民党の新憲法起草委員会事務局次長の立場としてもやっぱり憲法学者です。「国民の権利を保障することこそが憲法の憲法たるゆえんである。」と憲法の原理原則をストレートに書いてあり、しかも「日本人の礼儀作法がなっていない、家族のきずなが希薄になっているといってもそれは憲法とは何の関係もない。」と言い切っています。

また、日本人が「国家権力から身を守る最後の手段が憲法である。」ことを理解していないのは、現憲法は占領下で「与えられたもの」であり、フランス・アメリカのように血を流しながら闘いとったものでない、さらに政権交代の経験が少ないから、憲法が野党に対する政権側の攻撃弾圧(野党議員の不当逮捕とか、選挙妨害など)を跳ね返す武器であることの重みを知らないのである。と述べていました。

瀧井は、「立憲主義は国家権力の制約と同時にそれ(国家権力)を創設する」意義を強調していました。「伊藤博文は、国民の政治意識の目覚めと政治参加の拡大を図っていくことが国力増強の基本となることを明言している。」と述べ、さらに行政改革会議の最終で「明治憲法で日本国民に染み込んだ統治の客体(自ら進んでなく、唯々諾々と支配される国民)や行政への依存志向(お上に任せる考え)を払拭し、」と言うことでなく「明治憲法体制の清算ではなく、その見失われた伝統を発掘し日本国憲法の精神と接合することにこそ求められるべきだろう。」と日本国民が自らの手で権力を創設することの重要性を述べています。

最後の大塚は、天皇と公務員に対する「憲法擁護尊重義務」89条から憲法と言う「公」がどう運営されているかチェックする責任が国民にあり、柳田國男が「我々は公民として病みかつ貧しい」(1931年)と述べ、1928年に実施された普通選挙において有権者が誰に投票するか「気軽に判断を他人にまかせ」「群の快楽」にみを委ねていることに柳田が怒ったと書いているのですが、現在でも同じようにムードに流され投票している状況は、実は(治安維持法と引換えで制定された)普通選挙以来続いている(と嘆いている)。

「公民」とは「個人」として自分の思考、言葉を持ち、それを互いにぶつけあう能力が必要だ。そのような「公民」として能力があって「公・おおやけ」ははじめて生まれる。と結論付けています。

そうしますと、わが国では明治憲法制定から120年近く、普通選挙施行以来90年が経過しようとしているのですが、未だ憲法の本質も理解されず、伊藤博文が明言した「国民の政治意識の目覚めと政治参加の拡大」もなく、さらに民主主義的権力創設もまた権力を創設してゆく公民も未だにムードに流され投票しているのですから、所詮民主主義など無縁なのでしょうね。

今日ご近所の70歳過ぎのおばあさんに、「今回の選挙では違法ポスターが目に余りましたね。」と言うと『あんな、ポスター見ても、だれも入れないでしょう。』と不思議がられましたが、現実は違いますね。そうしますと、わが国の知的レベルは最近急激に低下しているようです。大正生まれの人のほうが、ずっと民主主義を理解しています。


posted by やすかね at 16:28| 千葉 ☁| 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする