1935年生れで、法政大学院で政治学を学んだ後、衆議院事務局で働き、園田直副議長、前尾繁三郎議長の秘書官などを歴任した後、92年衆議院事務局退職後、参議院議員などを務めた平野貞夫先生と会食の機会がありました。官僚時代、政治の裏表を知りぬき、宮沢喜一元首相からは「永田町のなまず」と呼ばれていたそうです。写真を拝見するとなるほど宮沢喜一は上手いことを言ったものだと感心しています。
それはともかく、平野先生から『角栄凄みと弱さの実像』(KKベストセラーズ)頂き、拝読しました。
これまで、私は、さしたる具体例もないまま「国民主権」は「官僚主権だ」などと言ってきたのですが、この本は、具体例を出しながらわが国の実体を解明しています。
そのなかで、印象に残ったところは、実は、自由民主党の中で、官僚と国民目線の議員との確執があり、角栄は最後には、宮沢的な官僚グループに足をすくわれたようです。
角栄は、「政治は生活」のためにあると考え、29歳で初当選してから39歳で郵政大臣になるまでの10年間で33本の議員立法を通し、そのどの法律も国民の生活に根ざしたものであるということに驚きました。憲法9条についてもこの平和憲法は変わることはない、と断言していたようです。
一方、岸信介が満州でやっていた所業にも触れています。イギリスは、中国から紅茶などの輸入超過に対して売るものがなかったことから、中国にアヘンを売りさばき、挙句には植民地のインドの兵隊を中国に送り、悪名高いアヘン戦争を引起こしたのですが、日本も同様のことをやっていたことが明らかにされています。
ノンフィクション作家佐野眞一の『阿片王―満州の夜と霧』は、中国人数十万人をアヘンで廃人にした日本の特務機関のトップだった里見甫(ハジメ)が行ったことを中心に「満州国は、関東軍の機密費づくりの巨大な装置」と伝え、そして、満州国開発5カ年計画を策定した岸信介に言わせると、満州国はそもそも「私(岸)の作品」といえるようなものでした。(前出 平野著159頁)そして、昭和17年翼賛選挙で議員となった岸は、佐藤栄作を運び屋に200万円の金が届いた、ということです。A級戦犯でありながら、戦後日本の舵取りをした岸信介がその様な人物であったとは、びっくりしました。
また、宮沢喜一が、平野先生に政権取の相談をし「政治で一番大事なのはどういう考え方か」と聞かれ、先生が「生理現象と病理現象を取り違えないことだ」と答えたところ、宮沢は「まことに恐縮だけれども貴方の学歴は?」ときかれ、言うほどのものではないと言うと、「是非言ってくれと」というので「(医者の家系だった)自分には屈折があり、医学部ではないが、2年間、医学部受験のため医科大学進学コースに行っていたので、そういう理系的な目で政治を見る」と答えた。宮沢は「東大医学部中退ですか。」と言うんです。宮沢は東大法学部の人間が知らない事を知っているのは、東大医学部の人間くらいしかいないという発想なんですね。とまぁ、東大出の石頭はその程度なのでしょうね。お勉強は東大ですが、頭の良さは法政ですね。
要するに、この様なエピソードを交えながら、尋常小学校卒の角栄に親近感を持ちつつ角栄の政治理念を語ってくれています。その流れが、国民の生活にとって重要であると言うことです。
私が纏めるのも変ですが、要するに、国民の代表である議員も議会の権限である立法権を行使せず、官僚の手先となっているのであれば、国民の生活も平和憲法も危険な状態になってしまうと言うことのようです。
同書は、「はじめに」で角栄は、新憲法の中から「人間の差別や地域の格差を解消するために政治活動を始めたのである。そして総理の地位に就き、歴史の中に差別されていた地域(裏日本)や人々に、政治の光を当てようとしたことを「官僚文化」は許さなかったのです。「政治は国民生活である」と叫んだ角栄が葬られてから、日本の官僚天津神の支配は「沖縄」をはじめ日本の過疎地、そして大都市の棄民を「艮」(ウシトラ)に塗り替え、さまざまな格差社会を作りました。と書いてあります。
日本の政治の視点を、官僚と国民生活を守る立場で見るとき、政治家の態度を分析するときに大いに役立ちそうです。そういえば、東京都の都議選を前に、国民目線で選挙協力を進める民進党に離党届を出した議員の理由は、官僚の立場と判断できます。最近にない面白い本です。是非ご一読を
2017年04月08日
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