2017年02月22日

神を畏れぬ「非本来的絶望」で良いか

厳しい試験に勝ち抜いて帝国大学、司法研修所での司法修習を終了して、弁護士登録をしていた若い弁護士が、最近、出家して小乗仏教の修行のためタイに出国しました。彼は、今頃タイで、毎日托鉢をして厳しい修業僧の生活を送っていることでしょう。日本で托鉢などしますと、軽犯罪法で「乞食」とみなされ、場合によっては罰金刑を受けるかもしれませんが、タイでは尊敬される出家者です。

彼もこれまでの自分の境遇・人生について様々な悩みを持ち、結局仏陀のような罪深い、個人的悩みを持っての出家とは思いますが、学校ではお勉強が出来て優秀であったが故に18歳から30歳前後まで、膨大な国費を費やした結果、個人的悩み、自分の「救済」のため、弁護士という天職を放り出した事は、理解できないのです。

例えば、楽天の三木谷社長は、国費で海外留学後、楽天を立ち上げ、現在では、数千億円の資産を築いていると思いますが、所得税とか相続税で最終的には、天下国家のため自分の能力を使い切るということで、嫉ましいほどの素晴しい人生と考えています。(功利主義的な理解)

翻って自分のことを考えますと、私(と同年代)は、150億年以上前から続いている太陽系の中で、つくづく幸運な世代だと感謝している次第です。70万年ほど前、人類が誕生し、数千年昔から、王様、貴族は、素晴しい生活ができていたでしょうが、それらの生活全てが、命をも含む他人(奴隷)の犠牲の上に成り立っていました。
ですから、貴族らが人間としての心を持っていれば、贅沢な生活を送る自らの存在自体に悩み苦しんだことは、想像するまでもありません。2千年以上昔、王子であった仏陀が出家して厳しい修行僧の道を選択したのも、人間としての心を持っていたからでしょうし、さらには、人間誰でも持っている死の恐怖とか、自分の儚い人生についての哲学的な悩みでしょう。
同じ人間でありながら、貴族の所有物であった奴隷などは勝手に出家なども出来なかったでしょうから、生きることの悩みはどうしたのでしょうかね。

しかし、21世紀の日本に住む私達世代は、現在まで戦争の危険に晒されることもなく、古(イニシエ)の貴族の様に、自らが生きるために他人の命までを犠牲にする事はないと思われ、ヒューマニズム的な格別の悩みもありません。精々子どものころ、美味しいものを食べたかったという懐かしい思い出の外、安全安心な社会の中で生活し、既に、高齢者の仲間入りをしています。毎日平穏に暮らしている悩みなき高齢者たちは「ピン・コロ」を願っています。この様な、死をも怖くない、悩みを知らない生き方をしている人は、キルケゴールの言う「非本来的絶望」で、宗教心のない救われない人間なのでしょうかね。

幸い、私も弁護士として四半世紀を遅らせていただき、今後は、そのお返しをどうすれば良いのかと贅沢な悩みを持っています。
高齢者の仲間入りをした皆さん「今でしょう。」やるべき事は! 生きることにお悩みはありませんか?

posted by やすかね at 17:02| 千葉 ☁| Comment(0) | 世相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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