それに続いて、人間社会の「正義」をどう理解したら良いのだろうか、政治権力を組織する民主主義社会はどうあるべきか、この民主主義社の結果の不平等をどうすべきか、最後に司法権の独立などに言及しながら、徒然なるままに、駄弁を弄します。お付き合いの程宜しく願いします。では、自分の簡単な経歴からです。ご容赦下さい。長々と考えて弁護士会の役割を自分なりに整理できたと思っています。
平成7年独立し,現在までに消費者委員会,業務対策委員会,商工ローン弁護団など歴任しました。自分としては商工ファンドの解体に向けて,最初の引き金を引いたのは自分である,との自負があります。
また富士見町の暴力団事務所の撤去も,知合いの不動産業者から情報を得て,最初4名で競落することを決定後,リスク分散のため弁護士会での共同購入者を募り,最終的に16名で暴力団事務所を競落し,これを県警に転売し,富士見町に平和が訪れました。この件は,東京第二弁護士会の会報でも紹介されました。
その他常議委員,平成15年から市原市議会議員2期8年の後,紛議調停委員を現在まで2年努めております。この間の様子は,拙著「喜怒哀楽」に纏めました。 既に10年以上経過し,在庫もありますので,ご希望があれば無料で頒布します。
四半世紀の間,弁護士として素晴しい時代を贈らせていただき,感謝の気持ちで一杯ですが,今後は弁護士会が,真に国民から感謝され,満足を与えられる団体となるためにどうすればよいか,真摯に考え,誠実に務め上げる決意を固めております。会員の皆様のご賛同を得たいと考えております。
飲水思源(原理原則から考える)
トランプ政権が誕生し,人類史の中で発達してきたはずの民主主義とは何かと,改めて考えさせられました。
また,私自身,社会正義を実現することを使命とする弁護士になって,四半世紀が経過し,加速度的に発達したインターネットは,過剰な情報化社会(仮想空間)を構築し,その結果人間と人間との直接的交渉を奪い,人々は立ち止まって,原理原則から考える余裕すら奪われ,何を信じて生きるべきか,見当もつかない状況です。この様なときこそ,憲法の大原則が現実の社会でどう生かされているか,歪められているかを認識しながら,今の弁護士会がどうあるべきか,真剣に考える必要があります。
先ずは,「正義」について考える
弁護士法第1条1項に,「弁護士は,基本的人権を擁護し,社会正義を実現することを使命とする。」要するに,正義の実現という結果に向け,弁護士の努力義務があるということです。
富の争奪戦が紛争の本質
ところで,正義の定義をしようとしますと,それは人権だ,法の支配だ,民主主義だ,などと色々考えることもできます。正面からの定義は難しいので,先ずは逆から考え,最大の不正義は,何かと考え,その原因を探ってみます。
有史以来の不正義は人間の殺し合いですが,最大の不正義は,国家と国家が殺し合いをする戦争です。この人間が争う原因は突き詰めると,人間に必要な物資,生きるに必要な食料などの社会的富の獲得競争(その結果としての格差)こそが,紛争の原因であることに行きつきます。植民地争奪戦,侵略戦争,宗教戦争も同様の目的があったと思います。
人間に近い,猿に見る紛争の原点
人間ではありませんが,人間に近い動物の世界で,富の分配から争いが起こる興味深いTV番組がありましたので,ご紹介します。
これは10年以上前のTV番組でのことですが,余分な餌もなく,生きるに精一杯の猿の群は,強いオスも,ほかの猿の餌を取り上げることもなく,争いのない平穏な生活をしていました。そこに,人間が群れの中にザル一杯のバナナを放置したところ,このバナナの取り合い合戦が始まりました。食べきれないのに,力のある猿は,バナナを独り占めしたいと「考える」のですね。興味深い事実です。
ホモサピエンスは,サルとは違いますが,それでも人類として十分な発達を遂げるまでは,殆ど猿に近い生活をしていたでしょうから,食料が十分ではない頃には,群れの中で争いは,恐らくなかったでしょうね。
最近のTVでアフリカモロッコの山中に生息するニホンザルに近い猿の群れでは,オスがメスに受け入れられるためには,子育てが一人前になる必要があるようでした。そして,この群れでは,日常の争いごとは殆ど見られず,若者ザルが群れを追い出される(近親婚の回避)場合,無用な争いとは言えないと思いますが,多少騒がしくなるという程度でした。驚きですが,雌の争奪戦も特にありませんでした(乱婚)。心温まる番組でした。
狩猟から農耕社会(権力の成立)
農業が始まり,生産力が拡大して,食料の余剰が出てくると,直接生産活動に従事することなく,全体を取りまとめる権力が発生し,その過程から争いが始まり,紀元前数千年のころには,暴力という実力を備えた国家権力が存在していました。
即ち,一方に他民族を征服した王様・貴族,他方に,戦いに敗れた奴隷が存在する古代国家が成立していたのです。そして,切れば血が流れる同じ人間でありながら,権力者は自分に有利なルールを作り,力(武力:裁判)で秩序を維持しながら,余剰生産物を独り占めにしたのでしょうが,長期間多数の奴隷を支配し続けるには,武力だけでは困難でしょうし,奴隷も苦しい現世を生きる中で,奴隷は「神」に救いを求め(旧約聖書など),人間を救済する宗教は,神の国での「平等」を唱えて発展し,長い人間歴史の中で,平等こそが正義であると観念されたことと思います。
古代における人間の平等観は,新約聖書 使徒言行録「持ち物を共有する」の中で「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく,全てを共有していた。・・土地や家を持っている人が皆,それを売っては代金を持ち寄り,使徒たちの足もとに置き,その金は必要に応じて,おのおのに分配された」とあるように「能力に応じて働き,必要に応じて受取る」原始共産制のような考え方が示されています。
しかしながら,権力者にとって全ての人間が平等であることは,到底容認できないものの,暴力的権力だけでは,治安維持を永続することも出来ず,不平等・格差社会の中での自分たちの権力の正統性を根拠付ける必要性から,権力者(王族・貴族)も自分たちの支配の正統性を「神」の信託に求めました。
根源的正義「平等」
以上の物語を,強引大雑把に纏めますと,紀元前から観念されていた根源的な正義である人間の結果的「平等」(前出新約聖書)を究極の目標としながら,権力者は,余剰生産物から生ずる格差に対する不満を力で押さえ,とりあえず折り合いをつけながら「公正」な政(まつりごと)を行ってきた,と考えられます。
時代が進み,人間社会の生産力は,飛躍的に拡大しても政の中心論点は,秩序(治安)を維持しながら社会の富をどの様に分配するのが,「公正」な社会といえるのか,ということです。
神から信託を受けた王様(王権神授説)が,税を徴収し,王族とその一族の優雅な生活と軍隊を維持していました。1215年のマグナカルタは,この様な王権支配に対し,封建貴族がジョン王に対して詰め寄って勝ち取った文書です。
このマグナカルタから人民の自由,議会の権利(更に,共和制)などに発展して,社会の富の公正な分配,民主主義などが発展したとされています。
ですから,現代社会で正義と言われる自由・平等・民主主義などは,人間の平等を軸に歴史的に進化してきたと考えても間違いはないと思います。
現代社会でも,権力の掌握方法は様々でも,権力は,富の分配を巡り,富者と貧者の折り合い(格差解消)をつけながら行使されているのは同じでしょう。(最近の報道ですと,ビルゲイツなど8名の超富裕層が,数十億人分と同程度の富を所有しているそうですが,この様な不均衡は,到底許せませんね。それ故にアメリカの超富裕層用のガードマン付要塞のようなゲーテッド・タウンがあります。)
帝国主義の時代到来
社会の生産様式(農業のあり方など)は,貴族と奴隷制の枠組みで数千年間行われてきました。歴史の進化と共に商品の流通と富の集中があったとは思いますが,なかなか資本主義の準備までは時間が必要だったと思います。
イギリスでは,羊放牧のため,農地の囲い込み運動から農村を追われた都市農民の労働力を「契約」で買い取った資本家が商品の拡大生産を始めた(資本主義社会の始まり)ことで,社会の生産力は,さらに飛躍的に拡大しました。
日本では,明治政府が両替商などから300万両の資金調達を行って,財政的基礎を作り,また地租改正から耕作地を失った自由労働者が生まれ,明治政府は,富岡製作所,八幡製鉄などの産業にテコ入れを行い,資本主義が始まったようです。
しかし,この様な資本主義による生産力の拡大は,結局のところ,格差の拡大であり,貧困層の増大から,社会不安が増大し,この貧困層の不満を「解消」する必要が生じました。そこで,国家権力を背景にした資本家が海外市場拡大を図り,貧困層から組織された軍隊が周辺国を侵略する帝国主義(植民地争奪戦)の時代へと突入しました。
国家統治の形態
帝国主義の時代は,君主制,共和制などありましたが,第二次世界大戦後,人間平等の観点から,多くの君主制国家が共和制に移行し,国家の権力者を人民が選出する民主国家が増大してきました。しかし,民主主義それ自体が素晴しいものでないことは,ヒットラーの選出も民主主義であったことから明らかです。
民主主義には,主権者国民の教育と情報開示
そうであるならば,真の民主主義は,どうすれば実現できるでしょうか,『都民ファースト』を進めている小池東京都知事が,情報公開を力説していましたが,自らの代表者を選出するためには,選出に必要な情報が全て明らかにされている必要があります。
さらに,選挙民自体,十分な教養を持たなくては,情報の正しい理解も出来ませんから,結局詐欺師みたいな代表を選出してしまう事となります。しかしながら,現実として,理想的な民主主義は,未だ実現困難な課題です。
表からの正義実現は,民主主義であり,その裏は司法権となる
いずれにしても,選挙民は,国政運営を始めとしたルール作りを,代表者に委ね,このルールに従って,行政権力が「正義実現」に向けて行使されたその結果が,常に正しいものであるとは言えません。
そこで,行政権の行使(税金の分配など)がルールに従っているか,さらに法治主義実現の根拠となっている法律自体が憲法に違反している否か,司法権が正義実現の最後の砦として最終判断をしなければならにこととなっています。
この様に社会正義の実現に向け,民主主義の制度として,「治者と被治者の同一性」の観点から,立法府の構成及び行政権者の選出,さらには司法権で正義実現の最後の砦としたとしても,現実として法に遵った正しい国政運営がなされているのだろうかと,疑問を持ったとき,やっと,独立して司法権を行使する裁判官の問題にたどり着くこととなります。
裁判官が信用できるか
ところで,裁判所は,最高裁以外の裁判官は,最高裁判所の指名名簿によって内閣が任命し(憲法80条),最高裁判所の裁判官は,内閣が任命(憲法79条1項後段),最高裁判所長官は,内閣の指名に基づいて天皇が任命(憲法6条2項)します。
ここで,司法権の独立について重大な問題が潜んでいます。例えば,司法権の独立とは,何かと言えば,それは具体的裁判において裁判官は「その良心に従ひ独立してその職務を行い,この憲法及び法律にのみ拘束される。」(憲法76条3項)との規定どおり,争いの事実関係を証拠に基づいて確定して,法律を解釈適用して結論を導くのですが,この事実の認定,法の解釈適用が独立した裁判官の良心に委ねられるのが,憲法の原則なのです。
しかし,裁判官自身「裁判官の良心」などと言おうものなら,たちまち,最高裁判所の事務(総)局から睨まれ,出世はおろか再任を拒否され,万人の万人に対する戦いとなっている今の弁護士業界に放り出されることになるでしょう。
従って,我が国の裁判官には,「出世」「経済的保証」の観点から見て「裁判官の良心」など保障されていないでしょう。とすれば,人格的に歪んでしまった裁判官が,国民の権利など擁護できるはずもありません。現実の裁判官の実態,最高裁の現状は,『絶望の裁判所』(講談社現代新書 瀬木比呂志著)を参照下さい。
弁護士は何をすべきか
以上,古代の正義(平等,公平・公正)から,この正義実現に向け,民主主義と司法権を考えてきたのですが,法曹の一翼を担う弁護士は,社会正義のベクトルを何処に向ければよいのでしょうか。
弁護士は,法科大学院ができ,弁護士の増員が始まるまでは,社会的経済的地位として優位な立場にありました。
しかし,アメリカの意を汲んだか,権力が弁護士自治を目の上のタンコブと考えたか,日本もアメリカ並みに訴訟社会となると考えたか(そう信じたマヌケな学者が多い),その真意はわかりかねますが,権力側は,陰に陽に動き出し,25年前300人の弁護士が700人超(千葉県)に増加した弁護士は,もはやかつてのように社会的経済的に恵まれた立場ではなくなりました。
それは,中坊日弁連会長の時代から,司法改革などと煽てられて,鍋のなかで,気持ちよくぬるま湯に浸っていたカエルである弁護士会には,竈が燃えているのが分かりませんでした。
この間,司法書士会,行政書士会,税理士会などは,日本社会の中での士業のあり方を真剣に考え,自らの業界の権益を確保拡大してきましたが,弁護士自治を錦の御旗にしてきた弁護士会は,国家権力と資本主義社会の中での民主主義のあり方,すなわち「社会正義を実現することを使命とする弁護士会は,国家権力と如何に対峙し,どの様に加担してゆくべきか」という基本スタンスを全く意識しませんでしたと言ったら良い過ぎでしょうかね。
最大の誤りが,「主権は国民にある」と憲法に書いてあるから,「主権者は国民だ」と誤解し,表から言えば,政治的には,権力に影響力を十分発揮できない左翼の立場を強調しすぎたことから,権力を行使している官僚組織と政権与党に対して影響力を与えることが出来なかったことでしょうし,裏から言えば司法権の独立を蔑ろにする最高裁に対しても何らの実効性ある提言をしてこなかったことです。
即ち,弁護士会が基本的人権擁護,平和主義などと理想的天下国家を論じている間に,弁護士(会)が浸っている湯船に水を張られ,じわじわと温度が上がっていることに全く気がつかないまま,取り返しのつかない20年が経過し,茹でカエルは,未だ死にはしないものの,危篤状態になってしまったということです。
弁護士会に展望があるか
では,具体的に弁護士会は何をすべきでしょうか。東京都小池知事も言うように民主主義の徹底には,情報公開が不可欠であります。また弁護士会として民主主義社会に積極的に関与してゆく,そのために地方議会から地方の首長選挙で積極的に立ち振る舞い,将棋の駒のような代議士などを選出して,喜んでいては,お湯の温度変化は,わかりません。情報公開と地方を含む政治参加を進めるべきです。
弁護士会として,国民の信頼を勝ち取れる相談システムを考える必要があります。特に国の運営する法テラスを弁護士会に吸収合併するくらい活動を強めるべきで,国民の制度利用の利便性を抜きに,法テラスの批判などしている暇はありません。
また,公務員の外部評価の制度化を図り,弁護士会として,判決・弁論準備・和解などで,裁判官全員の評価を徹底して行い,裁判官が移動しても,全国の弁護士会で情報を共有して,出来の悪い裁判官を徹底的にマークする。(既に,弁護士の評価は,裁判所内で十分されているでしょう。)
さらに弁護士の教育も不可欠である事は明らかであり,お勉強だけ出来て弁護士になった『秀才』は,人間的謙虚さを持ち合わせていなければ,具体的事件処理を行う職人とはなれないでしょう。ですから先輩から後輩への指導を充実させる必要があります。
以上簡単に考えられる弁護士会の課題を考えただけでも,弁護士会の業務は相当専門化される必要がありますから,執行部は複数年の任期を数回努める必要があります。当然ボランティアでなく十分な報酬の支払が必要と考えます。
その他,弁護士任官を経済的に支え,中央地方議会及び首長にも弁護士会として積極的に進出し,司法の表側にある民主主義を充実すべきことも重要です。
最後に法曹一元の実現は,喫緊の課題と考えています。裁判官外の公務員の身分保障とか,公務員個人の不法行為責任を問えなくしている国家賠償法は,憲法違反ではないかと考えます。
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