その一方、テレサテンとかケイウンスクなどの外国人の歌っている曲は、素直に歌詞に入り込めるのですが、『女の〇〇』の曲などは、巻き舌で歌いこまれ、歌詞を最後まで考える余裕を与えてくれません。何でだろうと、考えていたのですが、なんだか判ったような気がしました。
明治22年に生まれ、民藝運動を起こした思想家・美学者・宗教哲学者の柳宗悦(むねよし)は、日用品の中に「美」を見いだし、『美とは、無である』と言っていました。またピカソは、『90歳になってやっと子どもの絵が描けるようになった』そうです。
昔、友人と出かけた香港で、エッフェル塔を真ん中にした風景画(いわゆる「ペンキ絵」)を1000円で買って帰り、絵よりも高い値段(5倍)の額縁に入れ、長い間事務所に飾っておきました。お気に入りの絵でしたので、事務所移転の際、お隣の法律事務所にもらっていただきました。
ペンキ絵は、絵描き職人が自分の周りに何枚ものキャンパスを並べ、色を塗るときは、筆をもった職人がぐるぐる回りながら一日に何枚もの絵を仕上げるようです。
私は、どうしてペンキ絵が好きだったのかと考えたところ、柳宗悦の話を思い出し、結局ペンキ絵は、流れ作業で描かれることから作者の感情が入らず、イヤミのない風景画となっているのが理由でした。大量生産される民芸も作者のつまらない感情が入り込む余地がないことで、下手な「芸術家」の作品に負けない美を感ずることができるのでしょうね。
演歌に戻りますが、演歌は男と女の物語を描いた歌詞に曲をつけ、それを歌手が歌うのですが、外国人の歌手は、歌詞の内容に踏み込むことなく、ただひたすら日本語の発音とイントネーションに注意を払って歌っているから、全くイヤミを感ずることなく、曲を聞き入ることができるのでしょうかね。
ところが、多分、頭もあまり良くないでしょう、歌の上手くない演歌歌手は、作詞家の作った歌詞を正しく解釈することができないまま、自分の感情の赴くまま、独り気持ちよく演歌を歌い上げているので、とてもじゃないが聞いていられない、のでしょう。
しかし、車のなかで『岸壁の母』など聞き入っていますと、ウルウルしてきますので、正しく歌詞を解釈し、正しい音程で謳われている演歌は、やっぱ「日本の文化」だと再確認しました。
演歌の嫌いな人に、一度は確かめてみたいと思います。「美空ひばりの歌う演歌も嫌いなのですか。」とね。演歌のお嫌いな人も、演歌を正しく聞き分け、是非、演歌を再確認していただきたいと思います。
人を感動させることのできる、一部の素晴しい芸術家の作品は、鑑賞する人の様々な感情を素直に作品の中に見いだし、作者と感情を共有できる、極論すれば白地のキャンパスの様に下手な感情が入らない、子どものような絵なのではないでしょうかね。
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