2016年01月15日

キリスト教と所有権の絶対・個人主義

受験生の頃、「所有権の絶対」とは何ぞやと勉強したものです。記憶のまま書きますと、例えば不動産である山林の利用形態が多種・多様(村落共同体で山林を生活の糧としていた、複数人で、植林、伐採、開墾など)であると、この山林を他に売却することが困難となります。田畑も同様です。村落共同体で水の管理、耕作の共同、生産物の分配など、土地に対する権利関係は、複雑怪奇だったようです。
ですから、一筆の土地について所有者一人がいて、この土地を自由に処分できるなどと考える事自体、存在しなかったと言っても過言ではなかったでしょう。しかしこれでは、明治の文明開化から資本主義を進めようとした場合、土地の迅速かつ有効利用が損なわれてしまい、経済の足かせとなり、世界の動き(列強の帝国主義)に遅れてしまいます。
そこで土地の所有権は、その土地の所有者が土地に対する使用・収益・処分が(一定の法令の制限の外)他人に干渉されることなく自由にできるようにする(他人が干渉すると、国家は所有権侵害として刑罰とか損害賠償をさせることができる)ことで、明治以来資本主義的発展に寄与できる。またこの土地の取引の安全のため登記制度を充実して登記簿を誰でも見ることができるようにする。(公示制度)
概ねこの程度の知識を具体的場面で応用できれば、司法試験の受験には十分でした。
ところで、この所有権の絶対なる概念は、最近知ったことですが、神と人間の関係から出来上がったようです。『世界は宗教で動いている』(橋爪大三郎 光文社新書)によりますと、大学生の間で(最近は高校生も)評判となっているロボコンのロボットは、人間が作るものですが、このロボットが、これを作った人間に逆らってきて、悪さをしてきたら、皆さんはこのロボットを壊すことも自由でしょう。同じように世界を創造した神の作った人間が神に背けば、殺されたって文句は言えないという関係が正に所有権絶対の考え方の基礎のようです。
同じように「個人主義」も他人の自由を侵害しない以上、何をしようと大きなお世話、人の干渉などするな、というのですが、この個人主義の由来も神と人間の関係から出来上がったようです。キリスト教では信ずるものは救われる、ということで熱心な信仰(神のルールを守り)に励むこととなります。そして宗教改革で教会を経由せずとも、人間が直接神を信じ、お祈りすることで、ハルマゲドン(終末)の際、天国を約束されることになり、これを推し進めれば、結局自分の外の人間は、親も兄弟も友人も関係なく、自分と神の関係だけが重要となり、ここから個人主義の考え方が成立したようようです。
この様に考えてきますと、神も信じられない人は、個人主義など関係ありませんから、自分勝手な人を見つけ「神も信じられないものが、個人の自由などとほざくでない。」と注意したら・・・逆切れされる・・
最近は、とにかく宗教を勉強しなければ世界の動きが理解できません。前回ブログで宗教について勝手なことを書いていましたが、昨日、那覇空港で飛行機の待ち時間中に本屋で『ニュースがわかる!世界三大宗教』(文藝春秋季刊冬号第34号)を見つけ読み始めたら、実に面白いです。これをみれば、キリスト教とギリシャ哲学の関係とか、イスラム教、さらには難解な『世界史の構造』(柄谷行人 岩波書店)等も少し理解が進みました。最後に、佐藤優と半藤一利さんの「失敗の昭和史」などは必見です。本当は頭の悪い、秀才官僚が、国民にとんでもない災難をもたらしたことを実証しています。国語算数理科社会だけ優秀でも人間役に立ちません。現場を生きる職人こそ、これからの日本を背負っていけるでしょう。頭の悪い弁護士もダメですね。お前、自分を卑下してどうするのだ!
posted by やすかね at 18:35| 千葉 ☀| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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