これに対しJR東海会長の葛西敬之氏は「日本の数学のレベルは学校ではなくて、塾によって維持されている、という面もある」と反論したものの、事務局側は「公教育が再生されれば、自然と塾は競争力を失っていく。結果的になくなる」と座長に同調的発言を行い、国際教養大学長の中嶋嶺雄氏も「野依座長のおっしゃったように塾禁止ぐらいの大きな提言をやらないと」と盛り上がりを見せた。(朝日12月24日)と教育再生会議の模様を伝えています。
政府の教育再生会議と言うのは、これからの日本の未来を輝かしいものとするため、教育を再生させるため日本の賢人を集めての議論と思うのですが、この程度の議論で盛り上がりを見せている、と報道されては日本の教育が本当に再生できると考える人は少ないと思います。
最近、黒船で浦賀にきたペリーは日本の家庭から本を読む声が聞こえるのを聞いて、この国が西欧の技術を取り入れれば、西欧列強に追いついてくるというようなことを喋ったのですが、子供の教育がその国の未来を暗示させることは何時の時代でも同じです。
そう考えますと、わが国の賢人たちはこの国の教育をどのように位置づけしているか、などと疑問を差し挟む必要もなく「教育は極めて重要事項」とお考えのことと思います。
しかし、問題は「教育は重要である」と言うような抽象的なものではなく、現在の教育の荒廃は何を原因としているか、その根本的理由を賢人たちは議論しなければならないと思います。再生会議で議論していることをホームページなどで拝見することもできるのですが、新聞記事も大切なところを引用していると理解して自分では敢えてホームページを見ることもなく、自論を述べさせていただきます。
教育に関して、様々な問題点が指摘され始めたのは1970年代頃からだと考えています。何が変わったかと言うと国立大学の選抜方式に変化が出てきました。つまり文部省が大学入試をいじくり回し始めた頃ではないかと思っています。
昔、国立大学は一期校・二期校の分類しかなく、一期・二期で「レベル」が違っていたのですが、このような分類は「大学格差を生じる」「不公正な選別につながる」などとの観点から文部省(の下部機関)の実施する「共通一次試験」が始まったのです。現在ではセンター試験に「発展」し、多くの私立学校が参加していますが、この裏には文部省から大学への補助金が影響していると思います。
憲法では大学の自治・独立を保障するため、「公金その他の公の財産は、・・公の支配に属しない・・教育・・の事業に対し、これを支出してはならない。」(憲法89条)と定めているのですが、大学教育は広く社会に貢献しているにもかかわらず、憲法の規定があるから補助金を出してはいけないということは、逆に国民の教育を受ける権利を侵害するものでもあるから、私学に公金を支出しないほうが問題である、と考え私学助成を始めたと思うのです。しかし現実はこの考え方を逆手にとって、文部省は大学に介入を始めたと思います。
そして、一度大学入試制度が変わり始めますと、予備校、高校、有名私立中学とどんどん勉強方法が変化し、大学入試に必要な限度しか勉強しなくなります。県立高校での未履修問題も根っこは同じです。大学が卒業後の職業を決定し、一生の収入がどこの大学を卒業して、如何なる資格を有するかにかかわってくるからです。嫁さんだって変わってしまうのです。
私たちの大学生の頃から、学生の親の所得で一番高い大学が東大である、といわれていたのですが、要するに東大卒の親は、高い社会的地位を有し、収入も多いことから自分の子供に優秀な大学を卒業させ、自分と同じように高収入を得て楽しい人生を送らせようと考える親心からです。当然といえば当然です。
しかし、当時はまだ私達のように中卒の親しか持たなくとも自分ががんばることができれば親の学歴の限界を超えることも不可能ではなかったのですが、現在になっては成績が少々優秀であっても親の学歴が低く収入も少ない場合、子供は中々有名大学に入ることは大変となっています。昔、といっても30年ほど前は、学歴が社会的格差の解消に役立ったのですが、現在では学歴が社会的格差を拡大しているのです。
既に西欧ではそのような意味での階層社会・格差社会が出来上がり、子供一代で社会的に優位な立場に上ることが困難となっています。即ち、本来であれば夢も希望もある少年時代、既にある種の諦めを意識しなければ生きてゆけない、ぼんやりと未来のない社会が意識されていると思います。誰でも夢と希望があれば、がんばれるのですが、将来を閉ざされてしまった子供たちは不幸な存在となっています。このような格差は現在もどんどん広がりつつあります。
社会的に極めて優秀な一握りの子供たち、または全国レベルのスポーツ選手などはまだ将来はあるのですが、大多数の子供たちは夢も希望もなくなっているのです。
それでもまだ、社会が産業資本主義社会であり、優秀な技術を身につけ、立派な技術者として社会に貢献できれば、将来の可能性は開けるのですが、現在の高度な科学技術は物の生産現場でも単純労働しか必要ありませんので、ボーダレスの社会となって企業が単純労働者を求め、低賃金の中国などに進出すれば、国内的には一部高度な技術者がいれば足りてしまうのです。末端の労働者の賃金は限りなく中国に近づきます。
従って、わが国の産業としては既に多くの人を必要とせず、いわゆるIT革命といわれる高度な機械を操作できる、また他の人が知らない知識を持っている一部知識人しか社会として必要でなくなってしまいます。(喜怒哀楽131ページ「可能性奪うゆとり教育」171ページ「奴隷以下だよフリーター」)
このように考えてきますと、野依座長が言うように単純に塾を禁止すれば教育の問題が解決できるなどと考えるほど事は簡単ではないのです。社会的に優位な立場の親は自分の子供を一日でも早く勉強させ、将来優位な職業につけるように教育するのです。何時でしたか書きかましたが、六本木ヒルズ族では家庭教師に時間給20万円を支払う、などと信じられないほどの報酬を払ってでも自分の子供に教育を施すのです。(喜怒哀楽204ページ「金持ちはますます金持ちに」、213ページ「2004年納会」)
その結果、会社経営者、知識人、政治家など当たり前、本来世襲できないような芸術家、スポーツ選手までもが親が高学歴と高収入でなければ有名にはなれないのです。
ごちゃごちゃと考えを進め、今の教育を再生しようと考えますと、それでは相続税を高くして親の財産を子供に相続させないのが良いのか、日本中の子供を一箇所に集め同じような教育を施して自由に競争させるのが良いのか(喜怒哀楽106ページ「教育と受験・競争」)などと言う非現実的な方法しか浮かんでこないのです。いずれにしても教育再生会議での議論のように塾禁止ですむような問題でないことだけは明らかです。
子供たち全員に夢と希望の持てる社会を残すことはとんでもなく大変ですね。
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