彼女(以下「奇跡の人」)は、南北戦争が終わった翌年の1866年マサチューセッツ州フィーディング・ヒルに生まれました。両親は、19世紀半ばアイルランドで発生した大飢饉を逃れアメリカに移住しました。父は無学で技術も無く、大酒のみで食べるパンにも事欠き、彼女は5歳のときトラコーマに罹患し十分な手当ても受けることもなく、徐々に視力障害を起こし、優しかった母も3人の子どもを残し結核で亡くなり、8歳になる彼女は、親戚の世話になりながら父親と幼い弟妹の面倒を見ていたのですが、殆ど失明していたといいます。
10歳のとき腰に疾患のある弟と共にチュークスベリの救貧院に送られました。彼女、はこの頃のことを「野蛮な、残忍、陰惨」と記憶しています。1880年救貧院の監査があったとき、彼女は勇敢にも「学校に行きたいんです。」と訴え、運よくボストンのパーキンス盲学校に入学できました。救貧院を出たときは、新聞紙に包んだ着替え1枚と粗末な下着だけでした。
14歳まで学校に行った事もなく、読み書き・算数・行儀作法が遅れており、劣等感と惨めさを隠すため激しく反抗して教師を困らせ、クラスでも馬鹿にされていました。しかし、ひそかな努力で成績が向上し、それがまた周囲を軽蔑する態度となったそうです。
彼女の複雑な感情に理解をしめす教師もおり、何度も放校の危機を救ってもらい、やさしい寮母の愛情から、彼女の意固地な心も解け始め、物事をあるがままに受け入れられるようになり、「変えられるのは自分自身でしかないと悟った」のです。
彼女は、二度目の手術を受け新聞が読めるまで視力が回復し、闇の世界に光が差し込み勉強に精を出すようになり、それまでの憤懣と無知が他人に対する愛、理解、同情とに変わったのです。
ところで、1829年設立されたアメリカ初の盲学校の初代校長サミュエル・ハウは、ローラ・ブリッジマンという三重苦の少女に隆起文字や指文字を導入した教育方法を発案したものの、ハウ博士は彼女が入学したときは既に亡くなっており、義理の息子マイケル・アナグノスにハウ博士の教育が承継されていた。そして、ハウ博士と共に注目を浴びた少女ローラ・ブリッジマンは50代になり、ひっそりと構内で生活しており、彼女はこのローラ・ブリッジマンから指文字を習い学生たちのおしゃべりをローラの手に綴ってあげるなどの交流をしていました。
1886年晴れて卒業の日彼女は、総代に選ばれ、見事なスピーチを行って拍手喝采を浴び、彼女は美しく聡明な女性に成長していました。しかし、卒業後の進路が決まっていないところにアナグノス校長から南部の小さな町で三重苦のヘレン・ケラーという少女の家計教師を探していると紹介され、ケラー家で働く決心をした彼女は一端パーキンスに戻り、ハウの報告書を研究し、子どもの心理発達に関する本など半年をかけて準備した上でアラバマ州タスカンビアに出発しました。20歳の彼女にとって初めての列車のたびでした。
日本語で戯曲『奇跡の人』の原題が「The Miracle Worker」から分かるように奇跡の人といわれた「彼女」は、ヘレンを導いたアン・サリバン(通称アニー)でした。(『月間ハーストーリー10月号』通巻285号より抜粋)
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