2006年12月12日

教育基本法改正論議

教育基本法の改正問題が大きな政治問題となり、だいぶ時間が経過しています。自民党も民主党も大方「改正」を唱えているのですが、未だ改正の必要性とか、教育の原理原則とか、憲法との関係などについてどのような議論をしているのか、がよく判りません。実のところ、教育基本法を議論している国会議員のセンセ憲法の原則から理解できている人は少数ではないか、などと非常に偉そうに思っているのです。

市議会でもこの問題が議論となりそうなので、若干書いて見ます。「県議会レベル」(?)となりうるか、一つ問題もあるでしょうが、質問中居眠りをこかないように、また仮に居眠りをしても、口など開けて寝ないようにしなければ、・・などと、嫌味など考えながら筆を進めます。

市議会議員の自宅に送られてくる「アイデアルファミリー」という月刊誌があります。良いことも沢山書かれているので、時々拝見しているのですが、12月号は「教育から始まる国の再生」と表紙に書かれていました。この短い言葉が教育基本法を改正しようとしている人々の意見を凝縮しているようです。

すなわち、教育を再生することが「国を救う」と言うのですが、このフレーズの範囲で「教育」をわかり易く(?)解説しますと、「教育」とは一人ひとりの子供(生涯教育を含めると国民)をとりあえず一人前(人格の完成などと言うのは究極のこと)に成長させ、国家社会の役に立つ国民としよう、最終的目的は「国家・社会の繁栄」と考えています。一人ひとりの国民の自立を尊重するものではなく、国家社会のために教育する、この出発点が異なっているのです。

現行教育基本法と改正案とは、共にその前文で「日本国憲法の精神に則り」と書いてあります。現行法は憲法の精神というか最高の理念は個人にあると考えているのですが、改正案は複雑な論理構成で「個人の尊厳を重んじ」とは書いてあるものの、個人よりは「公共」もう少しいいますと「伝統を承継する国家」すなわち連綿と続く「日本国家」であるようです。

この基本的考え方は、各条文に入ってきますと段々明白となってきます。すなわち第一条では改正法と現行法でその内容に大差はないようですが、どのような国民になってもらうために教育をするのか、と考えますと、現行法と改正法が人格の完成、平和的な国家社会の形成者までは、ほぼ同じでも、その後は現行法が真理・正義・個人の価値・勤労・責任・自主的精神・心身ともに健康な国民と続くのに対し、改正案では個人の尊厳を表現するものが消え「必要な資質」とあるように個人を離れた誰かが価値判断を持ち込める、そのような内容になっています。

第2条以下も、視点は個人と国家、個人の自立と国家の必要、と言う表現に集約されています。

愛国心も今回の改正での重要論点といわれますが、国民が「愛国心を育てたい。」と考えるのはご尤もとしても、これは憲法に基づく政治が進められる中で自然と涵養されるもので、憲法とか教育基本法に記載すべきものではないでしょう。憲法とか教育基本法は法の性質上そうではないのです。

プロイセン憲法を参考にして作られた明治憲法も「立憲主義的憲法」であることは伊藤博文、森有礼(アリノリ)も当たり前のことですから、現在の国会議員たちが憲法は国家権力の制限規範であることを理解できていないことは真にもって残念というか、あきれますね。

結局、この教育基本法の改正問題を考える出発点は個人と国家のいずれから考え始めるのかと言うことです。イジメ問題とかタウンミーティングの問題から教育基本法を論じている節もあるのですが、全くナンセンスです。教育の出発点は現行の教育基本法のいうように、一人ひとりの子供(国民)の人格の完成を目的とする。そして、その延長線上に国家社会の発展があるということです。
posted by やすかね at 18:11| 千葉 ☔| 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする