2006年11月14日

「タフ」になれイジメ問題

いじめ問題は、とうとう学校長が自殺するまでにエスカレートしてしまいました。これまでテレビでは、自殺した子供の父兄の前で担任と校長先生などが土下座し、肉親から糾弾されている画面を何度かテレビで報道されているのを見ましたが、それは正常な神経では正視できるものでなく、テレビ関係者の独善的・無責任な体質が現れていました。

マスコミは、自分たちの過熱報道が校長を自殺に追い込んだのだ、なんてことは口が裂けても言わないでしょうが、この間の報道姿勢を見直す勇気が必要と考えます。特にいじめをなくそうという方向での報道は、単なる無責任な奇麗事であり、いじめをなくす事は不可能である(存在が必然)ことを知るべきです。

これまでも、企業の不祥事などがあるたびに会社役員がテレビの前で深々と頭を下げ、テレビキャスターなどが「自分たちこそ正義の体現者」気取りで解説していましたが、子供がいじめを苦にして自殺したとの報道があるたびにその矛先が教育関係者に向けられ、糾弾の対象とされている事は、やっぱりわが国特有(?)の集団ヒステリー状態だと思います。

子供が自殺した場合必ず「いじめがあったのか、なかったのか」が問題となり、いじめの存在を十分認識できていなかった学校はその責任を絶対免れられません。しかし、金銭の恐喝事件を「金銭トラブル」と腰の引けた認識をすることは新聞各社もこれまでにもやっていることです。明らかな被害者からの事件報告があってもマスコミは「当事者の公平な報道」から「トラブルに巻き込まれた」と報道し、被害者の感情を逆なでしている事は枚挙に暇がありません。

自殺した校長もそのような感覚で「金銭トラブル」と表現したのでしょうが、マスコミは「いじめ撲滅」という錦の御旗があるから、今回は「事件」だというのでしょうね。その結果安直に「金銭トラブル」と報告してしまった校長はマスコミの「逆鱗」に触れてしまい、これまでのテレビ報道のように全国民の前で土下座させられる恐怖感から自殺してしまったのではないか、そんな風に考えますが、校長の自殺は「事件」ではないのでしょうかね。

先日、作家の阿部譲二氏は、新聞で、いじめは大人の社会にだってあるんだ、だから子供はもっとタフにならなければだめだ、というようなことを述べていましたが、全くその通りだと思います。人間の社会に限らず何処にだっていじめはあるのであり、子供の頃、鶏舎に入れられた多数の鶏が一羽の鶏の尻から血が出るまでイジメており、イジメられている鶏を可哀想に思ったものです。

仮に、学校でイジメなど皆無で子供たちは一切嫌な事を経験せず、無菌状態で純粋培養されて成長し、社会にまた国際社会に出たらどうでしょうか、その様にして成長した人は人間を疑う事もできず、騙され、そのうちに命だってとられてしまうでしょう。

戦後61年、平和ボケといわれる日本人は多かれ少なかれ純粋培養されている傾向があります。その証拠に海外に旅行すれば、日本人は外国人から内心では馬鹿にされ、詐欺同前の商売に対しても金離れの良い、お人好し国民ですし、国際社会でも馬鹿にされ、あの北朝鮮からも六カ国協議に出なくても良いなどとおちょくられているのです。北朝鮮だけには言われたくないですね。

結局、人間誰でも子供のころからだけでなく、大人になっても、イジメられたり、イジメたりで成長し発展するのです。イジメ対しての免疫・抵抗力がついてこそ一人前になれると思いますので、タフな人間でなければ「生きられない社会」が現実ですから、単に奇麗事を言うのではなく、要するに打たれ強い、泥臭く、裸の付き合いこそ必要だと思います。

それにしても、気の毒なのが学校の先生です。子供をペットのように育てた親から、嫌な事を強制するな、体罰は絶対いかん、無視もするな、といわれては教室をフラフラ歩くだけでなく、外の子供にちょっかいを出す生徒に注意もできません。注意をしても聞き入れられず、お尻を叩けば体罰ですし、お尻をなぜたりすればセクハラです。これでは手足を縛られ、プールで泳げといわれているのと同じです。

子供に限らず人間は失敗をしてはじめて勉強し成長するものですから、未だ日本語が十分に理解できない子共に対して失敗を気付かせるには失敗した手をピシャリと叩いても体罰なのでしょうかね。先日警察署で、集団で監禁・暴行・強盗致傷で逮捕されている21歳に対し、「お前な、一人に対し集団で暴行して卑怯な事と思わないか」と言ってきたのですが、この連中は子供のときショック(制裁)を手早くシャープに加えておくべき類型の人間と思うのですが・・。既に手遅れですかね?手遅れなら、社会からの隔離しかないのです。この隔離にも大変な税金がかかります。
posted by やすかね at 12:26| 千葉 | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする