個人的には「家族に対する侮辱」であって内容はともかく一安心です。何が安心かと言いますと、仮にジダン選手からイスラムに関する侮辱的発言があった、など言われたら相手選手はイスラム教の関係者から「死刑」にされるだろうと心配していたのです。
報道によれば読唇術で相手選手は『テロリスト・売春婦の子供』などと発言していたようです。その結果母親は『性器を切り落とせ』と激しく反応したようですが、この激しさがイスラムの世界の常識なのです。
イスラム教では女性が結婚前に男と関係を持った事がばれてしまったときは「一族の恥」となり、家族の名誉回復のため父親とか兄は娘・妹にガソリンをかけて焼き殺すことも許されているようです。わが国のあだ討ちの歴史よりも激しいですね。先日に「悪魔の詩」の翻訳者が残虐に殺されてから15年が経過して公訴時効が完成したと報道されていましたが、イスラムの世界から見ればこの本の翻訳をした教授はイスラムの掟によって「処刑されても良い」「処刑すべきだ」となるのでしょう。
21世紀となっていますが、この地球上、まだまだ中世の掟がまかり通っている世界もあるのです。21世紀であるから、自由と民主主義などと悠長なことを言っていられない「世界」もあります。
先日の「ジダンの頭突き」では僕自身ジダン選手をことさら非難もしませんでしたが、あの程度の「暴力」より相手の心に大きな傷を残す言葉もあると思います。世界中が見ているところで暴力を振るってしまい、ジダン選手は世界中の子供に対して申し訳ないと謝っていましたが、相手の選手にはちっとも悪いと思っていないようです。後日、フランスの大統領も趣旨は同じような発言をしています。
日本では「とにかく暴力はいけない」という奇麗事で言葉によってどんなに傷つけられても、挑発されても手を出したらだめ、と考えるのがわが国の常識でしょうが、個人の名誉だけでなく、家族を侮辱されてもこれを我慢することは逆に自らの尊厳も守れないのではないか、と思います。有形力の行使と言う暴力は、必ずしも言葉よりも相手に当てるダメージは少ないときもあります。
「やすかね、手でやったことは直せるけど、口で言ったことは直せないよ」とは祖母の口癖でしたが、胸にヘッドバットを喰らってもその程度の痛みは一日も経てば直るでしょうが、ジダン選手が口に出す事もできない侮辱を受けたことは、何年経っても消えない傷が心に残るでしょう。
それにしてもサッカー連盟はこれから侮辱的発言の調査をするようですが、そんな事をすればさらに問題が大きくなってしまいそうです。仮に侮辱的発言が民族的侮辱などとなった場合、イタリヤの選手の命の危険が出てくるでしょう。今日のテレビでテリー伊藤氏は「調査などして、問題を大きくしない方が良い」と発言していましたが、同感ですね。
【関連する記事】