2006年07月06日

他力本願の平和が日本を滅ぼす?

産経に月一回掲載される「日本よ」に石原慎太郎氏が今回は「人間の弱劣化」と題して論じていました(7月3日)。

最近の日本では、社会のあらゆる場面に忌まわしい事件が多発しています。直近では日銀総裁の村上ファンドへの投資がありましたし、十年ほど前から日銀支店長の住む「社宅」が美術館のような邸宅である事が週刊誌で取り上げられ、さすが一万円札を印刷しているところだけある、と感心(内心は勿論腹ただしい)していたのですが、また日銀総裁の給与を聞いてみてびっくり、年間の給与が3000万円を超えているのですね。

アレだけ品の良い爺さんでも、爺さんにはかわりありませんから、そんなに給料を取って使い切れないだろうと思うのに、まだ立場も弁えず利殖目的で村上ファンドに投資し、これを知った国民が大きな声で辞職要求しているのにも拘らず未だ日銀総裁の立場に固執しています。

また、以前では考えられなかった残虐な犯罪も続発し、父親憎しから関係のない後妻と妹を焼きころし、「人生をリセットしたい。」という18歳、「民でできることは民に」の掛け声でチェック体制の不備を狙っての耐震偽装、大手会計事務所の粉飾などもプロがその立場を悪用しての犯罪です。

家庭の崩壊、会社ぐるみの悪事、上位の社会的立場にあるものの権限濫用、格差社会の象徴である六本木ヒルズの守銭奴連中、等々社会のあらゆる場面でルールなき不道徳社会となっています。

先日弁護士会の機関紙「槙」に「弁護士会の掟」と題して投稿しましたが、要するに社会には国家と国民の間にある抽象的規範だけしか存在しないのではなく、この中間にいわゆる「部分社会」といわれる仲間の集団があり、そこには国の法律とは異なる「掟」がある、と書きました。

犯罪は何時の時代にもあるでしょうが、江戸時代ころからと思いますが、わが国の犯罪発生率は、特に外国と比べてみませんが相当低い社会だったと思います。この安全・安心な社会は向こう三軒両隣がお互い素性の知れた社会であり、相互扶助の社会であったからです。「社会」である以上ある種の「掟」の存在は止むを得ないのですが、社会の構成員はこの掟によって安全・安心であるが多少窮屈な暮らしをしているのです。

今の日本はどうでしょうか、国家と国民の間では自由であり、各種権利も保障され、個人情報保護法などという法律でプライバシーも高度に保障され、隣の婿殿の素性など調べようもありませんし、隣近所の関係が希薄であれば女性を脅迫しながら長年「同棲」していてもお隣さんには全く分かりません。

先日逮捕された28歳の男は19歳の女性を「逃げると殺す」と脅迫して親と一緒に同居しても、親も「一緒に飯も食っていたし、交際中の女性」などと馬鹿をさらけ出しています。

このように国家と個人の関係及び社会の状況を考えていますと、わが国の危機的状況が浮かび上がってきます。長くなりましたが、この様な問題意識を持ちながら石原慎太郎氏の「日本よ」を読みますと、『・・最近頻発する忌まわしい出来事を眺めると、共通してあることを感じざるを得ない。』『それは・・平和であり・・日米関係に依存した根本的他力本願であり、それから演繹された個人主義による無責任、平和の安逸が育んだ物質主義だ。』、『・・家族という根源的な関わりまでを損ない破壊しつつある。』

また続いて『若い頃に辛い目に遭ったことのない、つまりこらえ性を欠いた動物は・・淘汰され・・人間は不幸な生き方となる。個人に限らず、社会全体、民族全体も同じことかもしれない。』と書いています。

即ち、他力本願の、安逸な平和が毒を醸し出し、困難なときにある本質的な人間関係が疎外され、個人も家族も、社会民族全体が弱体化(「弱列化」と難しい言葉を使っている)しているということです。

昨日、北朝鮮がテポドンを打ち上げ、日本などを挑発していますが、偽札を作り、わが国に覚せい剤を輸出して外貨を稼いでいる犯罪国家がお隣にあり、また北方領土、尖閣列島、竹島問題など重要な外交問題が存在しているのですが、国民は『俺には関係ない』と自由を謳歌しているのが現実と思います。

ここには地域はもとより、日本と言う国家社会の連帯感も存在しなくなっていると思います。もう60年、半分でも30年間、日本は長期間「辛い目にあっていない」即ち何ら鍛えられていない国となっているのでしょうね。

家族という最小の社会での厳しさ、部分社会でのルール遵守、メリハリの効いた法の適用こそ今求められている問題だと思います。
先日、車の駐車の件で憤っていたのですが、その前は炎天下スーパーの駐車場にエンジンを掛けたままのワンボックスカーのなかで女の子がワンワン泣いているし、今日も昨日(千葉日報社内に入っていって注意した)も千葉日報の裏のとおりで展示ブロックを跨いで車が止っていました。今日は新聞配送用の大型車でしたが、注意をしませんでした。弱い立場の人に対する思いやりが欠ける「強者」というのもホントは勉強こそできるが、頭の弱い「弱者」でしょうかね。

石原慎太郎氏の最後に戦時中『贅沢は敵だ』のポスターに「素」を加え、『贅沢は素敵だ』と書いた人がいたという事ですが、もう一つ『足りぬ、足りぬ、は工夫が足りぬ』と同じく個人の欲求制限のポスターに対し、「工」を消して『足りぬ足りぬは夫が足りぬ』と当時のご婦人のユーモアは逆境の力を感じさせますね。
posted by やすかね at 16:46| 千葉 ☔| 世相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする