2006年04月21日

第一回議会改革推進協議会

今日は議会改革推進協議会の話です。多少長くなりますが、いくつか関連するところをお参照いただいてからお読みいただくと分かりやすいと思いますので最初にその旨ご案内します。まず、「羊頭狗肉の市議会改革推進協議会」への入り方です。

AEDに関連して書かせていただきました3月14日付け記事の下段ブログのアドレスが記載されています。そこをクリックし、出てきたカテゴリの画面上の「議会」をクリックしますと2月28日に「羊頭狗肉の市議会改革推進協議会」の記事がでてきます。そこではどうしてこの協議会が開催されるのか、多少意地悪く書いてあります。

さて、本論です。4月17日午前10時から市議会改革推進協議会が開催されました。要は2月28日の協議会が一応動き出したというところです。当日は、今後の議論を何処から開始するのか、90分という長い話し合いの後、各会派の協議事項中「議員の審議会等への参画について」からということになりました。

そこで昨日、事務局から資料が届いたのですが、読んでいきますと、例によってなんとなく分らない文章となっているのです。冒頭「長が設置する執行機関の付属機関である各種審議会、協議会等に議員が委員として参画する事例は、減少傾向にあるものの依然として議員が参画する例が多い。」(原文に下線なし、以下同じ)と書き出され、議員の参画は問題があるというような口吻となっています。

次いで、「長の付属機関などの審議会等に議員が参画することは、審議会等の政策形成過程に参画していることで議会における審議を円滑にするという側面がある一方、」と書いてあり、議員の参画が議会の審議を円滑にするというのですからこの点は積極面を出しているのですが「一方、」と付け加えていることから、続いて消極的なことを言うのか、と思いきや「政策形成の初期段階における情報・資料の入手が容易となる(誰が?)など、多角的、総合政策的見地から検討が可能となり、その必要性が認知されていた。」と説明していますので、議論の方向がグルグル旋回しており、趣旨が不明確となっています。

議員が初期の政策形成過程で関与すると、情報の入手が容易となりアンダーラインのところは、意味不明です。どうも「一方」というところ推測すれば議員が政策形成過程に関与すると議員にとって「情報・資料の入手が容易となる」から政策をあらぬ方向に変えてしまうのではないか、賄賂がはびこり入札に便宜を図るなど問題が出るのか、などと穿った見方ができます。

次いで、「しかし、議員が長の設置する審議会等に参画することは、立法機関と行政機関の機関対立型をとる民主的な地方制度の趣旨からしていかがなものか、」と現実を弁えない観念的議論を展開しさらに「地方分権の推進による議会の厳正な監視機能の強化(@)と市民の直接的な市政参加を拡充(A)する等、議会を取り巻く環境の変化に対応するためにも、議員の参画については、・・法令の定めによるものに留めるべきであるとの見解もある。」と@の厳正とはどんな意味か、また@とAの関係も良く分かりませんが、一応「問題提起」が為されています。

この問題提起は、一応原理原則(立法機関と行政機関の機関対立型をとる民主的な地方制度の趣旨)からの議論が必要であるかのような論旨も見えますが、この原理原則からの消極的見解は「地方政治」という現実的問題に対し抽象的観念論で単純に消極的見解を述べているに留まります。

先ず、この議論は憲法の定める「地方自治の本旨」(92条)を出発点とすべきです。その上で現実政治がどのように運営されているか、これを如何なる観点からどちらの方向に誘導すべきなのか、その流れの中で議員が長の設置する各種審議会にどのように参画するのが地方自治の推進に有益かと議論すべきと思います。

国の政治は国会で選出された内閣総理大臣が最高権力者となり、行政権は、内閣に属します(憲法65条)。これを議院内閣制といっていますが、これと対立する制度がアメリカのような大統領制です。

大統領制の下では、大統領は国民の選挙で選出(アメリカでは間接選挙)され行政を執行しますが、立法は議会の専権となっています。これらの制度はそれぞれ国の歴史的経過から適切な権力バランスをとるため採用されていると思います。

わが国の地方自治制度は首長の選出は大統領制であり、議会は一応立法機関とされていますが、市原市の現実を見ても議会の制定する条例はその殆どが執行機関の必要性から制定されるものを議会が議決する事となっています。

自治とは即ち、自らルール(条例)を定め、自ら執行(税金の使い道を決め、実際に支出)することですが、「民主的な地方自治制度の趣旨」を考えれば現実の地方自治の運営は大統領制とも異なり、また議院内閣制とも異なり適切な権力バランスが維持されているかと考えたとき大きな問題点が存在します。

それゆえ、「市民の直接的な市政参加を拡充する」などといいますが、結局これは言うまでもなく議会の活躍の場が極めて少なく「地方自治の本旨」に反する現実があるということです。首長と議会の権力バランスが崩れ、そこに問題があるという認識があるからです。

わが国で内閣総理大臣を選出議院内閣制も国民から見れば首長を間接的に選出する点では大統領制と同じですが、例えばアメリカで大統領の選出が間接選挙とされているのは、恐らく国民は馬鹿だからその時々のムードで「国民の意思」が大きく変化して危険な政権が誕生したり、また政権の不安定がもたらされては国の重大問題となるから、国民の直接選挙はやめようということ思います。

結局、基本に「国民は馬鹿だから」という思想があれば議院内閣制も大統領制も基本的発想は同じとなります。逆に国民は「常に正しい理性的判断ができる」と考えれば、正しい公正な権力者を選出し、この人に全てを任せ独裁政治こそが一番効率良く運営される事になります。しかし、いずれの国も民主主義とは「権力は腐敗する」という基本的思想から成り立っています。

このように考えてきた場合、市長は直接選挙で選出されますから、この首長が議会を無視して権力を振り回せば市民にとって大きな災いをもたらします。議会があっても条例一つ満足に制定できなければ、首町は独裁政治を行なう事が可能となります。多くの人がこの危険性を感ずるがゆえに「地方自治の推進」などといっていると考えて大方の間違いはないでしょう。

このように考えてきますと、「議会の厳正な監視機能の強化から、・・法令の定めによるものに留める」とは以上のような問題点を認識せず「厳正」とは議会の権限を弱める方向での考えかたであり、到底容認できないものであるとなります。また「市民の直接的な市政参加を拡充」を図る前に本来の地方自治の充実、議会の権限を憲法の趣旨に則り充実する事こそ早急に実現すべきもので、「議会を取り巻く環境の変化」などという訳の分らないキーワードで「市民の直接的な市政参加を拡充する」ことは議会の権限強化を放棄していると考えなければなりません。

何時でしたか、市原市の基本構想の見直しのとき、「議員の有効活用をすべき」などと質問したところ、「有効活用とは何事だ」と訂正要求がありましたが、この様なくだらないところに文句をつけるのではなく、市原市の基本構想に基づいて市原市の予算が立てられ、その必要に応じて条例が制定されるなど、基本構想の中身は市原市民にとってこの先数十年の市政の方向性を決定付ける重要な問題であるから、市民の代表である市議会の意見を事前に聴取するなどして出来上がった基本構想について市民の誰もが「自分たちの基本構想」と賛同できるように仕上げる事こそ地方自治の本旨に合致すると思うのですが、どうでしょう。

このように現状の地方自治の運営を制度趣旨(民主主義)から見てきますと、議員が市民のこえを代弁しながら首長と一緒になり政策立案の初期から深く関与して、市原市の未来を考えていかなければならないと思います。

各種審議会も執行部の責任逃れとなるような形骸化した審議会ではなく、議会の各種委員会と位置づけ積極的に関与していくことこそ「市民の市政参加」を体現するものと考えます。このような基本的観点を検討することなく、安易に「市民の直接的市政参加」など「偽善的」なことを言っていると、民主主義の発展はないでしょう。却って市政運営に有害となる煩い連中の餌食となってしまうことも十分注意すべきでしょう。
posted by やすかね at 11:54| 千葉 ☁| 議会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする