2010年03月21日

哲学を学ぶ意味

昨年から、数名で「論語」勉強会をしているのですが、ここで何故2500年以上前の人々の「思想」を勉強する必要があるのか、高校の倫理の教科書をベースに考えて見ます。

幸福と生きがい:人間は身体的に満たされていても、精神的に満たされることがなければ本当の意味での幸福とは言えない。
「生きる意味」:誰でも我を忘れて何かに没頭しているときは、こんなことは考えない。
しかし、万能でない人間は必ず上手くいかないことがある。そこで、考えることになる。ということであり、必要なことは学ぶことである。「学びて思わざれば、則ち罔く、思いて学ばざれば則ち殆し」(論語)

「考える」ということ
パスカル:「人間は考える葦である。」
「考える」生理的欲求を満たすために考えるは動物でもやっている。
人間が「考える。」とは動物的ではなく自分の考え方、生き方を反省すると言う意味での「考える。」ということである。
「考えるとは、理屈を付けることでなく、深く感ずることである。深く感じる力を自分の中に育てられないと何も見えてこない」(詩人 長田弘 東京書籍 高校「倫理」)

「無知の知」
哲学を学ぶことが、どうしてソクラテス(BC469?~399)からなのか。「何も知らない」と知ったことから、自己の無知、人間の未知への探求が哲学(フィロソフィ:知を愛する)の出発点である。
哲学は、この人生についての根本的知識を得ようとすること、「この世界は根本において何であり、人生を如何に生きるべきか」の答えを捜すことである。

ギリシャの思想が発展した理由:生活の苦労の大半は奴隷にまかせ自分達は会話や討論に没頭する閑暇(スコレーSchoolの語源)をもち、この生活上のゆとりから自然の成り立ちに興味をもち、さらに紀元前5世紀頃になると思索の対象が自然から人間や社会(国家)への興味になってきた。

ソクラテス:アテネが民主政治の黄金時代から没落の道をたどる時期に混乱を増しつつあるポリスを立て直そうとして、人間のあるべき姿を徹底した思索を行い「自分の魂を優れてものにせよ、ただ生きるのでなく良く生きよ」と説いた。よく生きるために物事の善悪、美醜を知る(真の知者)善悪についての知を何より重視した。主知主義

知徳合一:優れた魂(徳)⇔善悪についての知の実現で人間の幸福
プラトン:理想主義的傾向を徹底した。理想の世界イデアが実在すると考えた。イデアの世界をこの現実の世界にどうすれば実現できるかを考えた。知恵に優れた哲学者が政治を行うことにより正義の実現された理想国家となる、と説いた。

プラトンの二世界説:理性でとらえるイデア界(真の世界)と感覚のこの世界(感覚界、現象界)これはキリスト教の「神の国と地上の国」の考え方に結びついている。
アリストテレス:師のプラトンの思想を引き継ぎ、理想主義的考え方を修正し、より現実を重視した。イデアは個々の現実の事物に内在(エイドス)している。この考えは中世キリスト教神学の中に入り、近代の科学的自然観が成立するまで、ヨーロッパの中心的自然であった。

配分的正義:各人の能力などに応じて比例を基礎とした配分
調整的正義:個々の事情を考慮せず各人を等しく扱い過不足を調整

中国の思想発展について
中国の最初の皇帝は黄帝、次に堯、舜、禹と三帝が続き禹によって夏王朝が建てられ、夏の後、殷(商とも)王朝、さらに周王朝と続いた。直接文字資料で存在が確かめられるのは殷王朝以後である。
紀元前16世紀ころから、殷は黄河の中流域を支配し、氏族ごとに村落を形成し、いくつかの村落で連合体が形成されていた。殷も連合体の一つであり、外の連合体を抑えて、盟主の地位にあったらしい。
紀元前12世紀連合国のうち周が勢力を伸ばし、殷は紂王を最後に盟主の地位を去る。

「封建時代」の成立:
周は、王族や功臣(親藩)を各地に配属するほか従来からの連合体にあらためてその地位を認め(諸侯)、これら諸侯を構成する各氏族の長が卿・大夫である。
諸侯にすることを「封」といい、新たな国を「建」てることからこの様な間接的統治を封建時代といった。周は4世紀ほど支配者の地位にあったが、前8世紀都を東の洛陽に移した。(秦が前221年全中国を統一するまでの500年が「東周」時代、であるが「春秋戦国時代」とも言われる。前5世紀までの300年間を孔子が編んだ歴史書「春秋」に扱われる時代という意味で春秋時代という。

中国思想発展の原動力:
前403年晋が趙・魏・韓に分裂したときが春秋と戦国の区切りである。戦国時代は約200年であり、弱肉強食の時代の中で富国強兵の必要から広く人材を求めた。春秋時代の後期に魯の国に孔子がでた。
もう一つの学派として墨子を祖とする墨家が戦国時代の二大学派、戦国時代の人材の需要が高まり諸子百家が出てきた。(徳間書房「韓非子」参照)

哲学と科学の相違:
ギリシャ哲学も中国思想も紀元前6世紀7世紀から始まっているが、何ゆえに2500年も前の思想から勉強する必要があるのか。それとも古い思想は学ぶ必要がないのか?

科学的な見方の特徴:科学はその対象とするのは、常に現実(悠久の昔からの宇宙全体:世界)の一側面(物理学、心理学など)である。
そしてこの科学的知識は、一度発見されればそれは万人のものとなり、後世の人はそれを前提にして前に進める。

ですから、全ての人が、子どものときから、一人で文字を編み出し、数字を思いつき、ゼロを発見し、ピタゴラスの定理を発見し、微分積分を学び、望遠鏡を作り出して地動説を知り、時間をかけて遺伝法則を発見し、さらに生物の進化法則を知る等という人類の科学的発展の努力をする必要はなく、客観的に明らかとなった事を前提としてその先に進むことができるのです。

しかし、これに対し哲学は、この人生、この現実が全体として何であり、またいかにあるべきかを問題とするということは、人が哲学を学ぼうとしたときは、各人一人ひとりが自らの人生を生きつつそれに向かって考える中で明らかになることである。

そのような意味で、哲学的な真理に関しては何時の時代でも各人が最初から見いだしてゆかなければならないといえる。哲学は科学とは同じ形では進歩しない理由がある。逆の面から言えば、偉大な哲学的思想は何時までも偉大でありつづけ、時代と共に古くなるものではないと言うことでもある。その意味で哲学は、宗教、芸術と共通性を持っている。(東京書籍高校「倫理」参照)


posted by やすかね at 11:23| 千葉 ☔| Comment(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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