2010年02月22日

刑事裁判の「発展」

先日、初めての裁判員裁判の弁護人を務めました。そこで、今回は、わが国の刑事裁判の概略をご説明し、その後の議論をスムースに進めたいと考えています。しばらくお付き合いください。

昔はですね、と言うとあたかも見てきたようなことなのですが・・「皆の者、面を上げーい!」と御奉行の刑事裁判が始まりました。舞台の正面には御奉行が座り、両端に書記係りと、6尺棒をもった「木っ端役人」が二人ほど控えて警備を任されています。
お白砂のムシロの上には、被告人と、その両となりには岡っ引がおり、その外、証人、被害者など一同が控えています。

このとき御奉行は、検察官と裁判官の一人二役で(時代劇の中では、遠山の金さんは、証人の役割もしました。)傍らには落語に出てくる町役(訴訟を担当した300代言?)をしている大家もいたかもしれません。

裁判の目的は、社会の治安維持を最優先にして御奉行が職権主義的に(取調べの進行は、お奉行の独断専行)しかも糾問的(一方的に質問し、疑いがあれば怒鳴りもする)に取調べを進めます。

証拠の提出も採用もその証明力(証人の発言内容の信憑性)の判断も全て御奉行の胸先三寸に係る裁判です。
この様な裁判を考えたとき、裁判の結果は、多くの冤罪を生んだことでしょうし、自白がなければ有罪とできないということになりますと、「私はやっていません。」などと白を切っている被告人には拷問も加えることになります。(実際は、拷問は証拠上あきらかであるのに白をきっているばあいであった、ともいわれています。)

この様な御奉行が職権主義的に進める前近代的裁判では、様々な問題があります。特に訴追官とこれを判断する裁判官が同一人では、個人的偏見が入り「正しい」裁判だけでなく、「正しいと信頼させる裁判」も実現しませんので、時代の進歩(明治の始まり)と共に行われた裁判の民主化は、先ず、裁判官の役割から検察官の役割を分離しました。

しかし、刑事裁判の基本思想が社会の秩序維持であり、検察官も裁判官もこの基本思想に基づいて裁判を運営しますから、刑事裁判は裁判官の主導的立場で進行することに変更はありませんし、検察官と弁護人も当然、対等の立場にはありません。
仮に弁護人が被告人に黙秘などさせようものなら、弁護人も被告人と同罪とまでは行きませんが、処分されたでしょうね。(ドイツではどうもそれに近いようです。)

また、裁判に必要な一件書類は、起訴と同時に全て裁判に提出されます。仮に検察官の提出した証拠に不足があると考えたとき、裁判官は検察官に有力証拠の提出を命令します。これを職権探査主義とも言います。この裁判が戦前までの刑事裁判の基本スタイルと考えてよいと思います。

しかし、裁判官が「社会の治安維持を守るのは、俺たちだ。」などと使命感を燃やしますと、その判断は偏向し、証拠を第三者として冷静に見ることができなくなりますので、公正な裁判を実現するためには、裁判官から「当事者的立場」を徹底的に排除し、民事裁判のように「利害関係のない第三者」として証拠の評価をさせる「当事者主義的訴訟構造」を採用しています。

また検察官が起訴をする際には、証拠を一緒に提出させることなく(起訴状一本主義)、裁判が始まってから検察官に提出を求め、また弁護人の反対尋問を保障していない供述証拠は、原則として証拠能力を認めない(伝聞証拠排除の原則)のが建前です。

さらに裁判の基本原則として「疑わしきは被告人の有利に」という証拠の評価原則(民事では、原告被告のいずれの証拠が優勢かで判決をする建前ですが、現実の裁判では民事と刑事が逆になっている)が採用され、被告人が犯人であるとするには合理的疑いが残る場合には被告人を無罪とするのが、これまた原則です。

21世紀の現代では、当然刑事訴訟の原則が「当事者主義」「黙秘権保障」「疑わしきは被告人の有利に」などが「当然」と思われますが、現実はそうではありません。
職業的裁判官の多くは、ご幼少のころからお勉強が大好きで、お育ちも良く、お友達と殴りあいの喧嘩などしてませんし、大人になってからも一般の社会人が行う「お遊び」もいたしませんから、普通の社会人から見ると社会の常識から外れています。

今、この瞬間も、同じ時代に生きているから、裁判官も私たちと同じ考えをしているだろうなどと誤解される人も多いでしょうが、裁判官の周りにいる人たちは、お上品な人たちばかりですし、官舎に住んで自宅と裁判所をお車で送迎されていますから、現実の社会からは相当はなれた生活をしているのです。

弁護士も一般社会の人々より多少「豊かな生活」をしているでしょうが、それでも弁護士と裁判官では周りの環境がまったく異なっているのです。

というような訳でして、今度、「国民の健全な常識」を裁判に反映させようとして裁判員裁判制度を採用したのです。逆に言いますと、今の社会は「裁判官は常識はずれが多い」と考えているのでしょうね。

この裁判員制度のポイントは、証拠から行う有罪無罪の判断という事実認定(これだけやるのが陪審裁判)とさらに一定の要件で量刑判断(懲役〇〇年)まで行うのが、裁判員裁判です。国論を二分しての制度導入ですが、これを採用するにも、採用後も莫大な費用をかけています。
基本的には、今のグローバル社会の中で、莫大な社会資本を導入して、また優秀な人たちをこの様な制度に駆り立て、国内で多大なエネルギーを消費していて、わが国はこれからどうなると考えているのでしょうか。

私が始めて体験した裁判員裁判での感想は、正に「こんな詰まらないことに多大なエネルギーを費やしているほど、わが国は余裕があるのであろうか、こんなことをしていると日本は、本当に沈没してしまうのではないか。」ということです。

話がそれますが、大人は、子どもたちに我慢を教えることもできず、子どもたちは精神的鍛錬も修行もせず、肉体の成長と共に自らの欲望の赴くまま行動し、20歳30歳では未だに一人前の社会人として成熟できていません。

一所懸命な先生もいる中で、国は学校の先生に雑用ばかりを強制し、教育の真の目的も蔑ろにされ、社会を考えない子どもが増加するならば、将来の日本はどうなるのでしょうか。
裁判員裁判制度の採用も、それほど余裕のない今のわが国を考えると大いに疑問が湧いてきます。
教育と司法制度改革は、明治政府が先進国に追いつくために真っ先に行ったものではないでしょうか。
posted by やすかね at 01:05| 千葉 ☀| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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