常日頃、反省する事多かりし自分です。どういうことかと言いますと、自分は誠実で嘘がないと考えており、人様からのご批判はそう簡単には望めませんが、ご批判を頂いたときは、謙虚になれるように努力します(内面では腹が立つことがある。)。
ということで、内面(質)では誠実で高潔であろうと努力しても、外面に現れた言動が礼を欠き、内面の精神とそぐわないとその人は野卑な田舎者にすぎない、そうです(渋沢栄一「論語」の読み方:三笠書房)。耳が痛いですね。
反対に内心が下劣であるにもかかわらず、外面をうまく取り繕って美しく見せる人が多いですね。心にもない美辞麗句を並び立て、出世しようとする人が・・・公務員の典型と言う事です。私ではなく、孔子様が言うのです。
今日NHKラジオで、京都大学で長年ゴリラを研究している先生が話をしておりました。言葉のないゴリラは視覚・聴覚・嗅覚などで相手が何を考えているか、予測して行動する、という事のようです。人間でも扁桃体は無意識下で相手の表情から自らへの危険をキャッチする(「感情の心理学」放送大学テキスト)そうですが、人間でも動物でも相手の感情を言葉でなくキャッチするのが相手とのコミュニケーションを始める出発点です。
人類が猿から分かれたのが600万年前、言葉を獲得したのが6万年前、文字を使用し始めてから数千年と言う事です。
こう考えますと、人間うまれてから、言葉を獲得するまでは、直接相手の表情をみてから、コミュニケーションをとる練習をしていることになります。逆に相手と顔を合わせないで携帯メールでのやり取りをしていますと、本当のコミュニケーションは取れなくなりますね。
そうしますと、トウヘンボクの花のように「無学(萼)多弁」で慇懃無礼の言葉より、内面の誠実さこそ大切なのですが、五感の鍛錬をしないと、「文(外面)質(内面)に勝てば則(すなわ)ち史(国家の礼式と書き物をつかさどる官吏:実は軽蔑している)」ということで、「内面」と「外面」のバランスを良く備えた人物こそ君子といえるようです。
私など、「もう少し言葉遣いを丁寧にすれば、誤解されないものを」と反省するのですが、皆さんは内面と外面のバランスのとれた君子でしょうかな? 失礼!
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