2008年12月20日

裁判員制度と刑事裁判

千葉県弁護士会では、裁判員制度導入に対して臨時総会を開催して、この制度を延期すべきかどうか年明けに議論する事になりました。ついては私も意見を言うつもりで原稿を書きましたので、ご覧下さい。

1、 議事進行について 今回は多くの人のご意見を拝聴したいので、1人3分の発言を保障したら、後はマイクのスイッチを切ってもらいたい。
2、 私も臨時総会の招集を求めた130人の1人ですが、裁判員制度導入について議論を深めるために総会招集に賛同しただけですので、私は結論として裁判員制度の延期決議に賛同するものではありませんことを冒頭に断っておきます。
3、 国民の認識と裁判員制度導入について
@ わが国での裁判についての基本的考え方は、「裁判はお上がやるもの」と考え、「北に訴訟をやるものがあればつまらないから止めろ」と宮沢賢治が言うように、わが国では、裁判はまだまだ「裁判沙汰」であり、病気になって初めて健康のすばらしさを実感するように、わが国では裁判沙汰にならないことが家庭の平和、社会の平和ですから、この様な国民に対し、いきなり「さぁ、民主主義国家では、民衆による裁判が当たり前ですから、あなたも裁判員になって裁判官と一緒に、あなたの言葉で裁判をしてください。」と言われても多くの人が面食らっているのは事実です。
A この制度導入が、どのような経緯で行なわれたか、考えても分かりませんし、ひょっとするとアメリカが「和をもって尊し」とする日本社会を「訴訟社会」に引きずり込んで、国民のエネルギーを消耗させようとする大きな国家戦略をもって導入をさせたのかもしれません。
しかし、現在までに莫大な費用と労力を遣ってしまった以上、国家の権威を守るためにもやらざるを得ないでしょうが、わが国では未だ市民社会が成熟しているとも考えられず、この制度を維持するにはものすごいエネルギーが必要であることは間違いないことです。
B しかしながら、結論としては、この制度が職業的裁判官の独善を排斥しようとする民主主義的制度である事から、困難であってもやらざるを得ない制度と考えています。ごちゃごちゃ言うとお前の結論はなんだとお叱りを受けそうですが、上手くいくには大変でしょうが、とりあえず決まったんだからやってみようよというのが本音です。
4、 刑事裁判の歴史概略
@ そこで、ご承知の皆様に稚拙なことを申し上げるのは申し訳ないですが、刑事裁判の歴史を若干振り返ろうと思います。独善的な点もあると思いますが、ご容赦下さい。
皆さん、大岡越前守とか、遠山の金さんの裁判をテレビを見ていますと昔の裁判は、お奉行が捜査の一件資料から、被疑者をお白州に引き出し、証拠に基づいて被疑者を尋問して犯罪事実を認定して「遠州無宿者元次郎に遠島を申し付ける。」などと、訴追から被疑者の弁護活動、証拠決定・犯罪事実の認定・量刑と1人で何役もしています。場合によっては片肌をめくって「この桜吹雪が見ているんでぇー」などと、証人にもなって、国家刑罰権を行使していました。
A 明治になりますと、京都市宮津市にある明治村に当時の刑事法廷を展示しているところがありますが、ここでは、壇上には検察官が訴追官となり、裁判官の隣に座り(書記官も壇上)、弁護人が壇の下で被疑者の弁護をするといったように、江戸時代の裁判官であった奉行から訴追と弁護の役割が分離し、裁判官は検察官の提出した一件記録に基づいて職権主義的裁判が行われました。
B 戦後は、ご承知のように検察官と弁護人が一応対等の立場で証拠を提出し、裁判官の証拠決定の上で、裁判官による事実認定と量刑判断が行われます。特に以前の刑事訴訟では、一応証拠があるにもかかわらず、被疑者が自白しない場合には、自白の強要も行われた弊害から、現在では虚偽事実の主張は許されませんが、被疑者に黙秘権が保障されています。(ドイツでは現在でも、黙秘権の行使が行き過ぎますと弁護士自身が疑われることから黙秘権行使も控えめであると聞いています。)
C この様に刑事裁判は、時代の進歩、民主主義の発展と共に進化し、証拠収集・訴追と弁護活動、事実認定・量刑判断とその役割が分割され、過ちを犯す人間の役割を分割して可及的に冤罪を防ぐ努力を積み重ねてきました。今回の裁判員制度は、その延長線上であり、事実認定における職業的裁判官の独善的判断からの誤判を防止するために採用されたと理解しています。
D もっとも、陪審裁判と異なるのは、陪審による事実認定では有罪無罪の結論だけしか示されず、上級審での審理が難しくなることから、あるいは、わが国の憲法上、裁判官による裁判が保障されていることから、裁判員制度では、裁判官も事実認定に加わると共に、量刑についても国民の意見を取り入れたほうが良いであろうと考え、今回の制度採用とされたようです。
裁判員制度は、重大犯罪については事実認定だけでなく量刑についてまで、民間人の判断を採用するということですから、職業的裁判官からみると「重大犯罪でなければ、これまで通り、裁判官にまかせるが、重大犯罪であれば、事実認定も量刑についても素人の判断を取り入れる」ことであり、裁判官にとっては屈辱的制度であると考える方もおられます。
C 即ち、簡単に裁判の歴史から考えますと、今回の裁判員制度は、時代の進歩に即したものであり、これを進めてゆくのが正しい判断と考えますが、どんな制度でも実際に始めれば、必ず問題点が出ることは明らかでしょう。
しかし、これはやってみなければ分からないことですから、全ての問題点が解消されなければ採用すべきでない、延期すべきである、などと考えることは、時代の進歩も見えていない、と言われても仕方のないことです。
また私たち法曹は、弁護士も裁判官も検察官も誰しも正しい刑事裁判を求めているとお互に信頼すべきであり、自分たちだけが正しい刑事裁判を求めているなどと考えることがあれば、それは明らかな独善です。
D ついでに言わせていただきますが、疑わしきは罰せずと言う刑事裁判の鉄則は、守られるべきでしょうが、証拠に対する「合理的疑い」を考えるとき、(神の目から見れば)本当は真犯人であるが、この証拠に対する合理的疑いから、犯人を「無罪」とするのですから、裏を返せば証拠法則から無罪となった犯罪者がお天道様の下を歩いていることですから、善良な市民にとっては、自分の安全は自分で守ると言う「市民社会」の危険を負担しなければならないと言うことです。
即ち私としては、証拠に対する「合理的疑い」とは、無辜を罰しないと言う原則と市民社会の安全と言う微妙なバランスの中で判断されるべき事と考えています。
posted by やすかね at 17:50| 千葉 ☁| 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする