何度か、ご紹介しました佐藤優氏が、その著作の中で「総合大学には神学が不可欠である」といわれていました。
私は、それはどういうことかと考えを続けてきましたが、中々結論が出るものでもなく、この疑問は頭の一部にしまわれたまま、現在に至ってしまいました。
ところが、頭、これは「質量がある頭部」(トンカチとか、釘を打つ、げんのう、はたまた傘の台?)ということでなく、非常にやわらかい、脂肪分を多量に含んでいる脳という意味である。質量とは少し異なる、人間の2%の重量(これは、地球の引力に引っ張られたときの「重さ」のことであり、質量は上皿天秤で測る、即ち地球上でも月の表面でも同じとなる)があり、人間が吸収する酸素の2割を消費するといわれているこの脳は、人間が意識下にないときでも、その内部ではものすごい速さで情報処理、整理整頓を行っている、非常にすばらしい器官です。
従って、誰でも問題意識を持ち続けていると、いつかパット回答が出てくるという、信じられない能力を私たちの脳は持っているものです。(これは最近の脳科学の見解)
大きく話が飛びますが、人間の脳波は、測定器をつければ頭の外側から客観的に測定できるものですから、場合によっては頭蓋骨を超えても客観的に存在するはずですね。どうしてこんなことを言うかといいますと、実は、私の車に搭載してあるGPS・カーナビは、私が興奮したり、極度に憤りを感じたりしますと、狂ってしまうのです。こんな事を言ってもなかなか信じてもらえませんが、もう何十回となく経験しています。
最初の事例は、もう十年以上に前のことですが、車(レガシー)にソニーの「ゴリラだか」「ガリレオ」だかのカーナビを積んでいました。車のエンジンをかけ、自宅を出るとき自然にカーナビのスイッチが入るのですが、ブチン・ブチンスイッチが切れてしまい、千葉の事務所に付くまでとうとうきちんと起動しなかったことは一度や二度ではありませんでした
その後、サンヨーのカーナビも全く使い物になりませんでした。これはボルボの850のときです。
しかし、カーナビが狂ってしまうのは、全て私が運転していたときのことであり、家の家内が運転しているときには、全く問題がないといわれました。
そして現実として、私が妻の運転する車の助手席にリラックスして座っているときにも全く問題がないことが分かりました。
そこで、色々考えますと、結局、私が怒って興奮すると頭から「電波が出る」のではないかという結論に達しました。
そして現在のボルボ・クーペではナショナル(パナソニック)のカーナビですが、目的地に近づいたりしたとき、道が分からなくなったりして、焦ったりしますとカーナビがぐるぐる回ってしまうことが判明しました。(私の運転に同乗している、家内は何度も経験している)
要するに、これは、人工衛星からの極微弱の電波は、私の近くにあるカーナビ受信機にとっては、私の頭蓋骨から発射される電波と同程度であり、私の近くにあるカーナビ受信機は、この様な同レベルエネルギーの電波を正確に受信できなくなっているということでしょう。
それ故、私が興奮すると、ナビに対しての「妨害電波」が生じてしまい、ナビが狂ってしまうことが判明しました。
この様なことを「告白」しますと「やすかね、狂っているのではないか」とご心配されても困りますが、脳波が強いとそのような客観的事実が存在し、明らかになると考えています。
話が、飛びましたが、戻りますと、欧米の総合大学には必ず神学があるということが、理解できました。
即ち、法の根本問題などを考えてゆきますと、法の支配という初期近代の政治思想に行き着きますが、国家権力をどうして制限できるのか、権力を持っていれば何事でもできるのではないか、何でも自由になるのではないか、と考えてきますと、結論としてやっぱり、正義の観点から国家権力は無制限ではない、必ず何らかの論理を展開して制限すべきであるとの結論に達します。
この理屈を色々考えてきますと、13世紀の哲学者でしたか「国王といえども神と法の下にある」といった人がいましたが、神を根拠にして国家権力の制限を唱えました。
21世紀の現在、客観的に神の存在を証明できるか、といいますとそれは、未だ不可能です。万有引力の存在は、客観的に証明できますが、国家権力を制限する神の存在は、客観的に証明することはできません。
この様なことを考えてきますと、最終的に我々は「神」の存在を認めないことには、国家権力を制限する根拠を証明することはできません。
よく共産主義者が「私は無神論です。」と言いながら、共産主義の世界(人間は、必要に応じて働き、必要に応じて受け取ることで、全ての人間が平等な理想社会ができると考える。)を実現しようと活動しています。しかし、この様な理想社会は、有限な地球の環境を考えるまでもなく、不可能ということが判明します。すなわち、これは数千年経っても絶対できない社会であり、客観的に存在できない社会、ということでこれも客観的に存在できないことを実現しようと信ずる一種の宗教ということになります。
結局、この人間社会での論理をぎりぎり、根本的原理原則に遡って社会のこと人間のことを考えてゆきますと、最終的には宗教的な哲学に行き着いてしまいます。
この様に、人間社会の根本を考えますと、神学的議論を展開しなければ、何も証明できなくなってしまうのです。それ故、最高学府の大学には、総合大学には神学部がなければ総合大学とはいえない、ということが理解できました。本当かね?特に改めて本を読んだものでもないですが、法の支配とか、権力の制限規範の存在、など法哲学ないしは宗教哲学的なものは、この様なことでしょうか?
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