2008年06月19日

監視カメラ社会の自由

これまで犯罪といえば、一瞬の出来事であり、犯行後の現場検証、遺留物件の捜索・差押さえ、被害者・目撃証人などからの事情聴取等々捜査が進み、犯人が特定され、被疑者の逮捕・勾留、被疑者の調書作成、と一連の手続きが進められて、しかる後裁判が開始される中で、過去の出来事であった犯罪の状況が「判明」する、この様な流れが一般的でした。

事件を担当した警察官、検察官、裁判官、弁護士、さらには被害者とその家族などは事件の概要を理解できるものの、それは「真実」には程遠い内容であるには間違いないでしょう。

「あの事件は、どんな事件だったのか、その真相は何だったのか」と疑問を持って、犯罪に関する新聞報道などを見たとしても、一般の読者には事件の一部についての概要程度しか理解できませんでした。

それでも、社会的に耳目を集め、関心を持たれた犯罪は、ワイドショウなどで、捜査機関の流す一方的情報、場合によっては興味本位に脚色を加えられた報道から、テレビで見た人は、過去の犯罪に関して、どのような「真実」を知ることができ、またどのような感想をもったのでしょうかね。

恐らく、自分が被害者とならなかった幸せと同時に凶悪犯人に対する非難を他の多くの「観戦者」と共感することで、当面の安心を実感するのですが、その直後に「今まで、わが国は、治安大国と言われたにもかかわらず、どうしてこんなに、凶悪犯が多くなってしまったのだろうか」と自らと家族に何時危害が及ぶかもしれない、と不安感で一杯になっていることでしょう。

先日、秋葉原での凶悪な犯行では、犯行の一部が防犯カメラで映し出され、昔であれば絶対見ることのできなかった生の犯罪行為を「ライブで観戦」できるようにもなっています。

ワイドショーでは、何十回何百回と犯行状況が繰り返し報道され、「監視カメラ」の「有効性」が体感されています。

しかし、わが国の犯罪統計を見ても現代社会が特に凶悪犯罪が多くなった事実はないようです。また街角に沢山防犯カメラが設置されたことで「犯罪が減少した」との報道に接した事もありません。

私達は、買い物に出かけ、家族友人と街角を散策している状況が常に監視カメラで「見守られ」ています。本当は「見張られている。」のですが、私達の感覚では「監視カメラさんが私達を見守ってくれている。」のではないでしょうか。

監視カメラもそうですが、警察のNシステムと言う主要道路に設置されたカメラは、24時間通行する車両の記録を残しています。「全ての車が監視されているのであるから、安全だ」と言えるのでしょうか。

以前にアメリカでは地球上の全ての通信を傍受していると書きましたが、その様に膨大な傍受であれば、逆に何ら個人のプライバシーが危険になっているわけではない。と考えられなくもないのですが、実はスーパーコンピューターで「特定人の通信だけを拾い上げることもできる。」という事ですから、権力から「狙われた人には、既にプライバシーは存在していないと思われます。」

何も、悪いことをしていないのであれば、良いではないか、とも考えられますから、「現代のような凶悪犯罪が増加した社会」(と多くの国民が考えている社会)では、監視カメラの危険性を指摘すること自体が危険視され、セキュリティー重視を批判することはタブーとなっているのが原状です。

自由に野原で生活していた鳥達に、「君達、狼が怖くないかね、私が君達を狼から守ってあげる、そのためには君達鳥は、僕の作った折の中で生活したらどうか」と提案され、反対した鳥が数羽折りの外にいたところ、現実に狼に襲われてしまった。これを見た鳥達は一斉に震えあがり、以後人間の作った折の中で「自由」を謳歌している。これが「平和」と言うものでしょうか。

昔なら、か弱い女性は、強い男性に守られ、結婚して家庭で子供を育てていたのですが、強くなり「自由」を捨てて外に出てしまった?少子高齢化はなんなんでしょうね。今日の思いつきのブログは、何だか、お判りですか?
posted by やすかね at 16:56| 千葉 ☁| 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする