プロ野球、ドラフト会議で将来有望な若者が70名ほど選出されますが、各球団から「戦力外通告」を受ける選手のほうが多数でしょう。
現役時代華やかな活躍をした一握りの選手は、引退試合などファンに別れを告げ、その後も二軍監督など野球人生を謳歌できます。しかし多くは「俺は、まだやれる」と考えながら引退を余儀なくされます。トライアウトに若干の希望もありますが、年齢・体力に限界が来れば、気力だけではどうにも出来ないスポーツ選手です。しかし、野球を引退してもまだ若く、選択肢は沢山ありますから、心配は無用です。今日はとても嫌な夢を見たのです。
昭和54年、市役所の安定した職場を30歳で退職して司法試験を受ける、と決めたときです。市役所職員のトップである総務部長から呼ばれ「今、市役所は入りたいといっても中々入れないのを知っているよな。」と慰留されました。当然です、法学部を卒業した優秀な職員が司法試験を目指していたようですが、未だ合格者は出ていません。その状況で全く門外漢の僕が役所を辞め、未だ受けたこともない難関試験を目指すのです。
その慰留に先立つ7年前、令和元年の台風19号あとの大雨で図書館が水没した旧武蔵工業大学を昭和48年卒業しました。市原市は、48年度(秋ごろ)からゴミの焼却処分を始めるため新設した清掃工場職員を20人ほど一挙に採用したようです。私は、たまたま工学部(機械科)で5年間遊学していた関係で市役所に技師として採用されました。
焼却炉は月に一度停止して、炉内清掃の必要がありました。ダイオキシンで汚染された炉内は摂氏100度を超えるサウナ状態、そこに簡単な防塵マスクとツナギで「防御」して四つん這いで真っ白で綺麗な灰を軍手で掻き出すのです。
平成16年、乳頭癌で左甲状腺を摘出しましたが、原因は不明です。しかし、清掃工場での大量のゴミ処分は成果が目に見える仕事で面白かったですね。
暮れに退職し、司法試験の択一試験が5月から始まりますから、予備校も択一を落ちた受験生2万人を対象に始まるスキー学校のような季節的予備校と考えていました。今考えると、笑い事で済みますが、当時は常識外れも良いとこでした。
受験生生活が始まり、一流大学法学部卒の受験生からは、殆ど戦力外の認定をされていたようで受験生のゼミも歓迎はされませんでした。憲法を始めれば、日米安保条約との関係はどうなる、民法はどうして出来たの、などと考えるものですから『日米安保条約全書』とか『日本民法の史的素描』など、司法試験の有害図書に興味がわきました。
それでも三年目の論文成績は「B」評価で、政治的立場の出かねない教養科目の社会政策で「E」を取ったことで、以後会計学に変更していました。あるとき『会計学』の学者も一生をかけて会計学を研究しているのだ、「安保条約」とか「民法の史的素描」など興味半分で勉強していたら、人生も7回必要ではないかと思い知り、真面目な受験生となって昭和終了直前、司法試験での「戦力外」通告を受ける前に合格することが出来ました。
今朝も、悪い夢をみて目が覚めました。古希を迎え、未だ司法試験の受験会場で悪戦苦闘している自分です。受験会場で若い人に取り囲まれ、仕事もなく、今更方向転換も出来ずに社会で居場所もない最悪の人生を続けている「夢の現実」からの開放は「目を覚ませ!」でした。