2018年07月25日

死刑制度存続の可否


オウム真理教の幹部たちが一斉に死刑を執行されました。一度に7名も死刑執行となると国際的にも大きな反響があったと思います。
死刑を廃止すべきか否か国家の法体系の中で、国家の刑罰権に基づく法の執行であり、独立国であるなら、他国からの干渉を排除すべきと考えることが最初です。多くの国がわが国に対して死刑廃止を求めているなどと、多数決に与すべき問題でもありません。

誤判の可能性が絶対ないとは言えないとしても、刑事手続きの中で最善を尽くしたうえでの執行なら、神でない人間の制度としてやむを得ないと考えます。
冤罪で死刑になった人がないとは言えないものの、未だ死刑囚が100人を超えることを考えれば、誤判の可能性がある故に死刑を廃止すべきだとの理由付けは根拠にならないと考えます。死刑が確定したなら1年以上も死刑囚として執行を待たせることは、非人道的と非難を受けながらも死刑囚が100人を超えている現実は、国家としても若干でも誤判の可能性を考慮するがゆえに死刑執行をためらっていると考えます。

そもそも、国家と国民の関係を考えれば、国家は、国民に自力救済を禁止たうえで、刑罰権を独占し、国民感情からも死刑相当と考えられる重大犯罪を敢行した犯人に死刑を言い渡すことは、社会秩序を維持する責任を持つ国家としても当然でしょう。
さらに言えば、現在でも独立国家は、徴兵権をもち、戦争となれば、若人を徴兵し、お前も殺される可能性があるが、罪のない敵対国の国民を殺せと命令しているのが、現実です。この様に考えてくれば、国の制度として死刑制度を存続したとしても、他国から「人道上問題だ」などと非難される理由はないでしょう。

わが国は、国民の8割が死刑存続を望んでいるものの、日本弁護士連合会は、死刑廃止の最大勢力でしょう。日弁連が死刑廃止を求める論拠を日弁連の「死刑制度いる?いらない?」(以下「パンフ」)であげますと、@生命の尊重A誤判・冤罪の危険B人は変わり得る。と死刑制度廃止の理由としています。@は死刑囚の生命尊重なのですが、殺人犯でも一人の殺人では、死刑判決は難しい状況です。人殺しをした人間の生命を尊重する、などとは本来かたき討ちを考えても可笑しくない遺族としては、到底許すことなどできないでしょう。A誤判の可能性がある故に死刑囚が100名を超えているのは、国家が死刑執行を躊躇していると思います。B人は変わりうるかもしれませんが、重罪を犯し、他人の生命を奪った後では、既に手遅れです。

また別の視点から、パンフ末尾では、国際連合は、世界人権宣言を公布し、(A:人類社会の全ての構成員の固有の尊厳及び平等かつ奪い得ない権利を認める)ことが(B:世界における自由・正義及び平和の基礎をなす)ことを考慮し(C:これらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを認め)、国際人権自由規約を採択し(D:死刑の廃止が人間の尊厳の向上と人権の斬新的発展に寄与する)ことを信じ、(E:死刑廃止のあらゆる措置が生命に対する権利の享受における前進と考えられるべき)であることを確信し、死刑廃止条約を採択しました。とあります。
これが死刑廃止を求める論拠と説明しています。

Aは、天賦人権思想からすべての人間に固有の尊厳及び平等が奪うことのできない権利であると宣言していますが、このことがB自由・正義・平和の基礎をなすと言えるものでもありません。ありていに言えば、天賦人権思想を認めることが世界平和の基礎と「考え」もいいですが、だからと言って世界平和に繋がっていることはありません。
そもそも、天賦人権思想とは、人権が神から与えられた、と考えるものですが、神の存在は、旧約聖書(さらに昔から)などのように、神の言葉を預かった「預言者」の言葉をまとめたものと考えられていますが、これは一つの信心に基づくものであり、「絶対的正義」でもないはずです。旧約聖書の最初には、凡そ平和とは言えない残虐な行為が神の言葉として書かれています。現在の中近東の紛争など、さかのぼれば、お互いの正義あるいは神のあり方から戦争状態が数千年続いているのです。だから人権と平和などを安易につなげてもあまり意味はありません。Cは、単なるAの言い換え、トートロジーです。
そう考えますと、Dで「死刑の廃止が人間の尊厳の向上と人権の斬新的発展に寄与する。」ことを信じ、とありますが要するに「死刑廃止が・・信じる」程度のことしかありません。ここから、E:即ち、死刑廃止が生命に対する権利の享受における前進と考え、と同じような「考え」を繰り返しているにすぎません。

パンフで、Dで死刑の廃止が人間の尊厳の向上と人権の発展に寄与することを「信じ」E死刑の廃止の措置が生きる権利の前進と「考えられるべき」ことを確信して死刑廃止条約を採択した。と結んでいます。
まぁ、ややこしい論理を展開しているのですが、書いてあることを理解するのは「難解」ですが、結局、「考える」「信じる」と死刑廃止を求めているにすぎません。日弁連をしてこの程度なのです。

ところで、天賦人権思想の根本には神が存在しているといっても、その神は旧約聖書(キリスト教、イスラム教の聖典でもある)にある通り、決して平和的なものでもありません。申命記に続くヨショア記6のエリコの占領などを見ますと、残虐の限りを尽くしているのです。
余談ですが、世界中の人々が熱狂した平和の祭典、ワールドカップが閉幕しました。しかし、人間の本性は残虐であり、サッカースタジアムの約半分の5万人を収容できるローマ帝政時代のコロセウムでは、戦争で捕虜にされた屈強な奴隷青年を剣闘士として養成したうえで、相手が死ぬまで戦わせ、観衆はこれに拍手喝采したのです。人間の歴史を遡れば、旧約聖書(BC9~1)の時代から人間の歴史の進歩は素晴らしいところです。
そして、「天賦人権思想」が素晴らしいこととしても、これを主張するヨーロッパ「文化人」もその思想ルーツは、奴隷制を基礎とするギリシャの民主政治と自由主義ですから、天賦人権思想から必然的に自由・正義・平和が結びつくものでもありません。A≠Bなのです。

また、「人間の固有の尊厳」と言っても、人間の存在自体、他の生物の生命を犠牲にしなければありえませんから、地球上の生命のサイクルを考えたとき、社会秩序を乱した人間の生命は人為的に奪うことが絶対許されないなどともいえないはずです。ペットブームの中で、素朴な考えとすれば、愛犬を殺した犯人を死刑にしろ、と主張する人もないではないでしょう。この様に、人間の命も、ぎりぎり考えてゆきますと、地球上の他の生命より絶対尊いとは言えないでしょう。僕は、希少生物であるアフリカゾウを密漁する人間よりは、象の命を尊重しますが、皆様いかがでしょうか。
また、自然権思想からか、捕鯨禁止などと大騒ぎをしている人々の前進は、先住民アボリジニの人権を無視して国家を作った、もとをただせば、島流しされたヨーロッパ人なのです。人間の命とクジラの命を比べることも、人間が他の生物の生命を犠牲にして生存している、と謙虚に考えれば、何時の時代も人間の命は、自然の中での仏教の生命輪廻の中にあると考えた方が理解しやすいと思います。この様に色々考えてきますと、私は、全国の弁護士からは異端と称されるでしょうが、死刑制度を存続すべきと考えています。
ヨーロッパ人は、奴隷制を基礎に発展した社会ですから、労働(アリストテレスも奴隷は筋肉を使う家畜と同じという)を蔑視するのですが、アジア諸国は、顕著な奴隷制もなかった国が多いと思いますが、このアジアでは死刑存続の国が多いですね。一神教と多神教の違いでしょうか、判りません。
所詮人間は、偶然に生まれ、必然的に死ぬのですが、私は、他人の生命を奪った人間の生命を尊重するほど寛大にはなれません。まして、弁護士だからときれいごとも言いません。
因みに、7月26日オウムの死刑囚残り6名に死刑が執行され、来年の元号改正前にオウムの死刑囚全員に死刑が執行されました。
posted by やすかね at 17:22| 千葉 ☁| Comment(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする